ニーチェさんの身体測定が終わる。
次は君の番だよ、という視線を私に送りながら、脇へと退いていく彼女――。
瞳は、潤んでいる。
ほおは、熱そうに火照っている。
耳までも、赤く染まって。
呼吸は、荒い。
それらの症状が、ただ単に、疲労に由来するだけのものであれば、平和だったんだけど……。
そうでもなかったりするのである。
平和じゃないのである。
――いや。
基本的には、そうではあった。
平和ではあった。
ニーチェさんの身体測定風景は、おおむね、きゃっきゃきゃっきゃと騒がしく、賑やかで、明るいものだったのだから。
「疲労」と述べたのも、「あれでは、疲れちゃうだろう」と、そういう意味でのものだったのだから。
平和で、あったのだ。
しかし。
そうではないシーン、基本から外れたシーン、平和とはいえないシーン――もまた、確かにあったのであって。
例えば、ウエストの時など。
バストの時よりも、さらに大騒ぎだった。
無理もない。
何しろニーチェさんの格好は、おなかのあたりを丸出しにするものなので。
肌に巻き尺が直接当たるものなので。
それはそれは、冷たかったことだろう。
くすぐったかったことだろう。
刺激的だったことだろう。
それで、
ついつい、呼吸を止めてしまったりしたのだろう。
溜めていた息を吐き出したら、思いがけず、熱いものになってしまったりしたのだろう。
際どい声を漏らしてしまったりも、したのだろう。
その情景――。
「けしからん」であった。
「いいのか!?」であった。
どきどき、であった。
はらはら、であった。
ニーチェさんの見せるあんな症状は、そうした危うさに引き起こされたものであった。
平和じゃないのであった。
そして。
それを、
そんなことに、なるだろうことを、
そんなことに、なってしまうだろうことを、
私は、予測していた。
――何故って。
だからこそ、私は宣言したのだ。
描写を放棄する、と。
省略する、と。
書けないだろうし。
捉えきれないだろうし。
それどころじゃなくなっちゃうだろうし。
何より――。
私は歩む。
保健委員・代行さんの前へ。
すにこさんの前へ。
「じゃあ、すずめちゃん」
彼女は微笑する。
彼女の微笑は、いつだってとびきりだ。
「はい……」
「ニーチェの、見てたよね? あんな感じで測ってくから、よろしく」
――何より。
ニーチェさんのことばかり細かく書いておいて、自分のこととなったら口をつぐんでしまう、というのは、いかにも不公平ではないか、と思ったから。
大変な状態に陥っていくニーチェさんの姿を、私は、書かなかった。
だから私も、同じようになるだろう、自分の姿を、書かない。
うん。
そういうことで。
素材の取捨は、レポータの特権ということで。
「レポータならレポータらしく、自分のことも客観視して、書いていくべきではないのか」という声は、黙殺する方向で。
あ。
でも。
「――む……、すずめちゃんも、実はそこそこ?」
「え……、えぇと……」
「着やせするタイプ、か……」
「お、おそれいります」
都合のいいところだけは、書いておこう。
そう。
特権だから。
うん。
そういうことで。
*
私の測定も終わった。
私は、すにこさんの前を離れる。
ニーチェさんの隣まで歩いた。
そうすべきだ、みたいな気がしたのだ。
何故だか、何となく。
「身体測定」という言葉のせいだろうか。
――自分の番が終わったら、既に終わっているひとと並び、静かに待っていること。
約束。きまり。ルール。
ニーチェさんと横列を作るように、立つ。
顔は合わせないようにしていた。
そうしにくかったのだ。
自分がどんなコトになっているのか、自分で判っていたから。
さっきのニーチェさんのコトを思い出し、自分の姿に置き換えて、想像してみるまでもなく。
けれども、
視線を感じてしまう。
ほおに。
敏感になっている肌に。
見ると、
果たして、私を見ているニーチェさんだった。
彼女は、特に何も言いはしなかった。
ただ、
照れるような、
肩をすくめるような、
それでいて、面白い悪戯を考えた時のような、
えへへ、と、
やれやれ、と、
にひひ、と、
それらを混ぜこぜにしたような笑みを、送ってくるだけだった。
私は、
――私も、
今この場には、そんな形の笑みこそが、ふさわしい。
そう思って、
それを返し、
そして、気づいた。
――これは、
――共犯者意識?
どちらかといえば、私たちは、されちゃった方である。
しちゃった方ではない。
だけど、
そうであっても、なお、
それだ、と思った。
*
さて。
ふたり、まだ残っている。
どうするのかな、次は誰かな、とすにこさんを眺めていると、彼女は動いた。
ひざの上のクリスさんの、頭に手を添え――、
あ。
軽く持ち上げた。
そうしつつ、おしりで横へスライド移動。
頭の下から、脚を抜いてしまった。
しかも。
どこをどうしたものか、いつの間にか、すにこさん、クリスさんの手も、すそから外してしまっても、いるのである。
あの手。
小さくはあっても、しかし、すにこさんの服を握る力は、しっかりとしたものだったというのに……。
驚きだ!
「えええ」
驚愕の声が、私の横でも挙がる。
ニーチェさんだ。
「い、今の何」
「縄抜けの手品みたいでしたね……」
「ど、どうやったのかなぁ……。
――っていうか」
「『ていうか』?」
「だまされてたんだよ僕たち!
すにこってば、今みたいなことができるのに、動けないフリして、それをいいことに、僕たちにさんざん恥ずかしいポーズを! 胸とかおしりとか、差し出させて!」
「――あ」
「許すまじ小笠原すにこ!」
激昂するニーチェさんだった。
測定中の彼女の様子は、私には、ずいぶん楽しそうにしてるように見えていたんだけれど、本心のところでは、そうでもなかったらしい。
「うーん……。
まぁ、実際、そうでもなくもなかったりするんだけどさ。
ドキドキするよね、ああいうのって。ちょっといけないコトしてる感じがして」
にひ、と笑うニーチェさんだった。
――左様ですか。
さておき。
すにこさんである。
今やすにこさんは、すにこさん・スタンドアロンである。
自由に、軽快に、動いている。
立ちあがりながら、回れ右、
長椅子に向き直り、
その上で眠るクリスさんに、向き直り、
ひざを曲げ、
足を上げ――、
椅子に登った。
クリスさんに登った。
すにこさん、クリスさんに馬乗り。
「えええ」
と、またニーチェさんは叫ぶ。
だが、
これは時期尚早というものだった。
何故なら――、
すにこさんの所業は、それで終わりでは、それだけで終わりでは、なかったのだから。
すにこさんは、
なんと、
さらに、
クリスさんに覆いかぶさったのだった。
覆いかぶさって、何か、もぞもぞしているのだった。
このシーンだけを切り出したら、
金髪の女性パラディン、栗毛のメディック少女を襲い、長椅子に押し倒し、抱きしめている図。
――それにしか、なるまい。
「ええええええ」
と、またまた――そう、さっきは早すぎた。ここぞそうするべき、正しいタイミングだ――叫ぶニーチェさんだった。「いいのかな!? いいのかな、あれ!? おっけーなのかな!?」
私に聞かれても。
「すにこってば、ケダモノだよ! パラディンなのに! こんな明るい内から! 外で! 店先で! 人前で!」
「――これこれ」
よっ、という掛け声とともに、起きあがるすにこさん。上半身をひねって、私たちの方を振り返った。「ひと聞きの悪いことを言うものじゃない」
「だって!」
興奮醒めやらぬ口調のニーチェさんであるが、そんな彼女にすにこさんが、
「ほら」
と軽く振り動かすことで、示したのは、
――自身の両手、
だった。
それらは、ものをつまんだ形を、していた。
その指先から、クリスさんの身体へ延び、わきの下へと消えていっているものが、あった。
――巻き尺。
「測ってるだけだってば」
それはそれで、問題があるんじゃなかろうか、ということを、さも当然のことのように言うすにこさんと、
「あぁ……、なーんだ」
しかし、それだけで簡単に納得し、誤解か、あはは、とばかりに頭を掻くニーチェさんだった。
「僕ってばてっきり――」
「『てっきり』?」
「いや、てっきり僕、すにこのことだから、クリスちゃんが寝てるのをいいことに、悪戯を始めたんだ、って思っちゃってさ。
びっくりしたなぁ、もう」
「……明るい笑顔で、衝撃の内部評価を開示してない?」
(まだ続く)