馬鹿は、しばらくの間、ぽかーん、としていた。
ところで。
食堂なんかのガラスケースには、メニューの見本としてロウ細工が飾られているものだけど、もしも、どこかに馬鹿の見本というものを飾ることになったとしたら、今のこいつのこの姿こそ、ロウ細工のモデルにもっともふさわしいだろう。
――そんなものを飾りたがるひとが、一体どこにいる、という問題はあるにしても。
――まぁ、たとえ話であるからして。
閑話休題。
要するに、そんなことを思わせるくらいに、いっそすがすがしいくらいに、馬鹿の表情はマヌケだったのだ、と主張したい私なのである。
さて。
ぽかーん、としていた馬鹿は、ふと、ぱち、ぱち、と大きくまばたきをした。
そして、
「ぷ」
吹き出し、
くすくす笑いを始め、
どうやら、それを抑えようとしているらしい素振りを見せ、
しかしできず、咳きこみ、
ついには、
「あはは」
声を挙げた。
何だか知らないけど、私が、笑われているようだった。
面白くない……。
「何よ……」
馬鹿は――、
「キツネ」の手を開いた。
平手。
それを、自分の顔の前で、左右に振った。
「いやいや、いや」
目尻に涙なんか浮かせつつ、である。幸せなやつだ。馬鹿。
で、
続いて、
「もう……、ヤだ」
と上下に振った。「どりりんってば」
招き猫みたいな感じだった。
おばさんくさい感じでもあった。
また結局のところ、笑いっぱなしでもあった。
こらえようと頑張る、その努力は、見てとれるものの……、
「ぷふ、くす、あはは」
かなってはいないのであった。
「どりりんって言うな馬鹿。笑うな馬鹿。説明しなさい馬鹿」
何なのよ、馬鹿。
*
おなかの中に笑いグセがついてしまったのか、ケイレンの余韻を残しながらだったけど、
「言葉が足りなかったかな――」
馬鹿は解説を始めた。
「『敵を追い払う』っていうのは、『取るに足らない敵を、追い払う』って意味だったんだけど」
――あぁ。
それなら判る。
納得。
けど、
「最初からそう言いなさいよ馬鹿。そういうことなら判らなくもないわよ馬鹿。さっきのじゃ、言葉、足りなさすぎるわよ馬鹿」
コメントは、そういうことにしておく。
*
馬鹿の解説は続く。
「騒ぎに驚いて逃げるような相手なら、戦うまでもないわ。足しにもならないもの。
私たちが倒すべきは、『それでも、向かってくる』敵だから」
「ふーん」
ちょっとだけ、感心する私だった。
あくまでも、ちょっとだけ、だけど……。
見かけによらず、言動にもよらず――つまり、全体的な印象とは裏腹に、わりとシヴィアなところもあるのね、この馬鹿、と。
すると、馬鹿のやつ曰く、
「それじゃあまるで、私、全体的にはアタマゆるゆるで、何か抜けてるひと――みたいじゃない」
コレである。
「その通りでしょ馬鹿」
「どりりんのジョークって、キツいわー」
「ジョークじゃないわよ馬鹿」
「あはは」
聞いてないし、効いてない馬鹿だ。
疲労感。
というよりは、徒労感。
肩が落ちる。
肩を落としていると、でも、と馬鹿が言った。
顔を挙げる。
そうしたら、
なんと、
驚くべきことに、馬鹿のやつめ、
納得いかない、という表情を浮かべているのである。
生意気な……。
馬鹿のくせに。
「何よ」
聞いてやってみれば、
「普通、判らないかな? 経験値稼ぎしようとしてるのに、敵を全部追い払おうとするはず、ない――って」
と来るじゃないか。
……。
こいつ……。
自分が「普通」だと思ってるらしい。
言ってやらなきゃダメか。判らないか。
「そりゃ、普通なら判るわよ、普通なら」
皮肉なニュアンスをたっぷり込めて、送りつけてやったら、
馬鹿のやつ、
「つまり」
「『つまり』?」
「つまり、どりりんは普通じゃない……?」
こんなことを言うのである。
私は転んだ。
何そのプラス思考。
――気をとり直して……、
「どうしてそこで自分に都合良く解釈しちゃうのよ馬鹿。そうじゃないわよ馬鹿」
「だって……」
馬鹿は不満そうだった。
「『だって』、何よ馬鹿」
なので私は、異議くらいは聞いてやろうとして、
それが間違いだった。
馬鹿は数学教師のような口調になって、言ったものである。
「大前提、『普通なら判ることである』。
小前提、『どりりんには判らなかった』。
結論、『どりりんは普通じゃない』。
――きゅーいーでぃー」
な――。
「何が QED よ馬鹿! 要らん三段論法を構築するな馬鹿!」
*
「――普通じゃないのはあんたの方よ馬鹿。私だって、相手があんたでなかったら、勘違いなんかしなかったわよ馬鹿。わざわざ説明されなくたって、『あぁ、弱いやつが出ないようにしようとしてるんだな』って判ったわよ馬鹿。けどあんたが相手となると、勘違いだってしたくもなるというものなのよ馬鹿」
一気に言って、険のある――あるっていうか、丸出しの。葉っぱの一枚くらいなら軽く射抜かんばかりの熱量を持っている――視線を、ぶつけてやる。
でも、馬鹿には通じなかった。
馬鹿はあくまで、にこやかだった。
「それじゃあまるで、私、普段からロクでもないことばかりしてて、そのせいで、たまにマトモなことをしても、さながらオオカミ少年のごとく、周囲に信用されないひと――みたいじゃない」
コレだ。
……。
こいつ……。
まさか判っててやってるのか。
「だからその通りだと言ってるでしょ馬鹿。そこまで的確に自己分析ができてるなら何とかしなさいよ馬鹿」
「どりりんのジョークって、やっぱりキツいわー」
「ジョークじゃないってのよ馬鹿」
ぐったりだ。
*
「――ま、何にしても……」
総括、というような口調で、馬鹿は言った。「どりりんも、作戦自体には納得してくれたみたいだし、じゃあ、続けようか」
茂み叩き棒を振り振り、歩き出しかける。
私は――、
まぁ、一応、納得はしていて、
それでいて、
まだどうも、どうにも、どこか、何だか腑に落ちない気もまた、していて、
――そうだ。
その原因に思い当たって、
そこで、馬鹿の背中に、異議を申し立てようとして、
その前に、
私が何も言わないうちに、馬鹿は足を止めた。
「……何よ」
いぶかしい。
聞く。一旦、発言は棚上げだ。
「ん……」
馬鹿が、こちらを振り返った。
馬鹿と私との間には、距離がある。
空間がある。
それを隔てて、馬鹿は私を見ている。
「……何なのよ」
馬鹿は――、
「――逃げる相手と戦う必要はない。向かってくる相手こそ、戦って倒し、糧とするべき相手」
そんなことを言い出した。
まるで、さっきまでのおさらいをしよう、というかのように。
「でも、だからといって」
馬鹿はそこで、言葉を切る。
視線を横に流して、
「真っ向勝負をするつもりは、ないの。
……ムジュンするようだけど、ね」
何だか釣られてしまって、私もそちらを見る。
茂み――。
「だって、危険は危険に違いないもの。口では立派なコトを言ってはいても、私たちは所詮、初心者にすぎないんだし?」
私は視線をそこから外せない。
馬鹿の声だけを耳に聞く。
「だから、茂みを叩くのは」
視界の端で、何かが動く。
棒。
馬鹿の持っている棒。
その先っぽ。
「気の弱い敵を、あらかじめ排除するため、と、
気の強い敵を、刺激し、私たちに立ち向かわせるため、と」
馬鹿が棒を振ろうとしている。
「それから」
振った。
茂みに当たった。
茂みが揺れた。
「向かってくる敵を、怒らせるため」
茂みから黒いカタマリが飛び出した。
*
私は思わず、一歩、引く、
きゃ、とかいう声が、漏れたかもしれない、
「冷静さを奪ってしまえば、そいつの攻撃の軌道は、どうしたって、直線的になるでしょう?」
馬鹿の声が、遠くに聞こえて、
カタマリはまっすぐ、
こちらに向かって飛んでくる、
「そんな攻撃なら、あらかじめ読んでおくのはたやすい」
カタマリは、腕を、
――そう、あれは腕だ。
腕を振りかぶっていて、
「先手を取るのは、たやすい」
その先には手、
その先には指、爪、
カギ爪、
「万一、突然襲いかかられた形になったとしても」
カギ爪が振り下ろされる――、
「後の先を取り返し、戦闘の主導権を握り返すことさえ」
びゅっ、
空気を斬り、裂き――、
貫く音、
「また、たやすい」
空中にあった黒いカタマリが、
そこから、
消えた、
もぎとられるように、
なぎ倒されるように、
叩き落とされるように、
撃墜――、
私は下を見る。
黒いカタマリ……、
――元・黒いカタマリ、か。
モグラの一種だった。
矢が1本、突き刺さっていて、
もう、動かない。
あぁ……、
と思った。
こういうのを撃墜というんだな、と。
矢の刺さり方から判断して、私はその射手を捜す。
少し離れたところにいた。
レンジャー。
彼女は……、
すずめ、って言ったっけ。名前。
矢を放った姿勢のままだった。
弓を構えたままだった。
私の視線に気づいたせいなのどうか……、それで初めて、力を抜いていた。
照れ笑いのような顔になっていた。
「――陣形名」
馬鹿の声、
私は馬鹿の方を見る。
「フォーメーション・ストーンヘンジ。
腕のいいレンジャーがいると、こういうことができたりして」
馬鹿は微笑していた。
私は――、
この馬鹿を、
怖い、
と思った。
だって、
こいつ――、
一歩も動いてないじゃないか。
モグラが飛び出してきたのに。
矢が飛んできたのに。
それなのに。
「これが、歌って騒いでいたことによる、実際の効果」
まったく、動じていない。
それどころか、笑っている。
笑って――、
「この結果を見ても、なお、疑問の余地はある……、かな?」
そんなことを聞いている。
何だ……?、
何なんだ?、こいつ、
この馬鹿は、一体何だ?
「私たち、そろそろ、合意に至れないかな?」
馬鹿は待っている。
私の返事を。
私には言葉が見つからない。
けど、何かは、言わなきゃいけない。
そうだ。
言わなきゃ。
何か言わなきゃ。
でないと――、
私の負けだ。
このままじゃ、一方的に。
それはイヤだ。
負けるなんて。
為す術もなく、負けるなんて。
イヤだ。
私は結んでいた唇を解く。
小さく口を開いて、
なのに、
言うべき言葉は、見つからない。
何か……。
……。
――待てよ?
私って、こいつに何か言おうとしてたんじゃなかった?
こんなことになる前に。
そうだ。
そうだったはずだ。
異議が、あったはずだ。
だったら、それを言えばいい。
じゃあ……、
「それ」っていうのは、どんなこと?
……。
――ダメだ。
記憶の底に、沈んでしまったみたいだ。
浮かんでこない。
思い出せない。
どうしよう……。
どうすればいい?
私は困った。
私が困っていると――、
馬鹿が、すうっ、と、その表情から笑みを消した。
目を細めて、厳しい顔で、
「どりりん……、それはダメ」
*
「え?」
ここにきて、やっと、発するべき言葉を見つけることができた私だ。
たとえ、疑問の一音でも。
全然、有効なものではなくても。
言葉は言葉だ。
だけど、
ひとまず安心、とまではいかない。
むしろ不安は増すばかり。
「『ダメ』……?」
何が?
何のこと?
馬鹿は私をにらんでいる――、
違う。
そうじゃない。
あれはただ、見ているだけ。
見透かしている、のだ。
何を?
私の何を?
私は、何を、見透かされてる?
「ダメ」
馬鹿はうなずいた。「……そんなコト言っちゃ、ダメよ」
「そんな……コト?」
どんなこと?
私が、何を言おうとしてるって?
自分でも、正答を見つけられていないっていうのに?
どうしてそれを、この馬鹿が見透かせる?
馬鹿は――、
困ったような、たしなめるような、そんな笑い方をして、
「ダメよ」
くりかえして、
そして不意に、ひときわ大きな声量で、
「『すずめちゃん……、居たんだ?』なんて言ったら?」
と――。
……。
え。
と思った。
「え」
と声にも、出た。
馬鹿の言動。
意味するところが判らなくて、
……。
理解するのに、
時間がかかって――、
理解した。
待て。
ちょっと、
ちょっと待て。
待て待て待て、待て!
「待ちなさい!」
馬鹿は聞かなかった。
馬鹿は首を振った。
「いくらなんでも、それはヒドいと思うな……」
「待てと言ってるでしょ馬鹿! 何!? 何なのよそれは!?」
馬鹿はまたも、聞かなかった。
馬鹿はため息をついた。
それから視線を、ちらっ、と横に。
その先にあるもの――。
私には見当がついた。
想像するだに、つらいもの。
できることなら、見ずに済ませたいもの。
避けて通りたいもの。
そういう類のものがある、と。
それでも――、
そうするわけには、いかないんだと、
そういうことも、私は知っていた。
覚悟を決める。
見る。
そこには、
すずめ。
しゃがんでいる。
こちらに背中を向けて。
背中。
何だかとても痛々しい空気が発せられていて――。
予想していたのに、
心の準備はできていたはずなのに、
にもかかわらず、
ショックだった。
「あ……」
おなかに来たのは、圧倒的な罪の意識。
どーん、と重い。
私の目は釘付けにされてしまった。
私の意識は釘付けにされてしまった。
悪い意味で。
「あーぁ……」
耳に届く、馬鹿のつぶやき。「傷ついちゃったよ、すずめちゃん」
え。
馬鹿を振り返ろうとして、視線を外せない。
「ヒドいなー、どりりん」
え。
頑張って、何とか、顔を馬鹿の方に向けて、
しかし、目がついてこない。
元の場所を見たまま。
「ヒドいなぁ、どりりん」
「ですね、どりりんさん」
ニーチェと、くりすけの声が、同調して、
「そんな……」
私は呼吸が苦しくなる。
そのままでは、空気を吸えない。そんな状態異常。
手で口元を押さえて、
それがフィルタ、
それで少しは楽になって――、
ふと、
悟った。
口元の手を、ゆっくりと、外してみる。
降ろしてみる。
――うん。
大丈夫だ。
フィルタなんて、必要ないんだ。
最初から。
何故って、
私、
すずめを傷つけるような発言、してないし?
私は、降ろした手を、握った。
グーにした。
グーにして、
再び、顔のところまで、持ち上げた。
顔には、微笑を浮かべる。
逆に。
「判った――」
馬鹿が、重々しく言った。
「私が悪かったと認めるから、せめてグーは止めていただきたい」
「――却下よ、馬鹿」
(もうちょっとだけ続く)