世界樹の迷宮の中には、「樹海磁軸」なるものが、あるという。
それは、それが存在する地点の周囲の空間をゆがませるというか、スキマを開けてしまうというか、「通路」をつなげてしまうというか、要するに「それ」系の状態を引き起こすもの。
直接には行き来できるはずのない場所と場所と――例えば、迷宮の奥深くと、この街中と、みたいな――を、しかし、にもかかわらず、あたかも隣接するマス目どうしのごとくに、「くっつけて」しまうもの、
そして。
どうしてそんなことが可能なのか、そもそも、どうしてそんなものが存在するのか、詳細はまったくの不明である、というもの。
もの――、なのだそうだ。
私はまだ、自分の目では、見たことがない。
だから、伝聞だ。
でも。
たとえ伝聞であっても、想像することはできる。
便利なんだろうなぁ、と。
本来なら、延々と歩いてたどりつくしかない、その場所。
その道中、迷宮の住人との戦闘は避けられない。
時には、とんでもないのに襲われることも。
それが。
一瞬で。
便利なんだろうなぁ、と思う。
*
さて。
どうしてこんな話を始めたのか、というと――。
「樹海磁軸」は迷宮内部に発生しているものなんだけれど、別に、「内部」に限った話にしなくてもいいんじゃないかな、と思ったからだ。
迷宮の上に建っている、この街の中に発生したとしても、それをおかしいと言えるひとはいないだろうな、と思ったからだ。
何しろ、理屈の判っていない現象なんだし、と思ったからだ。
つまり。
一緒に迷宮に潜るメンバを募集している求人票を、見つけて、
それには、「パラディン、ダークハンター、メディック以外なら誰でも」とか、何だかいい加減な条件が書かれていて、
「娯楽の殿堂」とか「淑女の社交場」とか、よく判らないことも書かれていたりして、
なんか、「可愛い子歓迎」って文字が線で消されていたりもして、
私はレンジャーだから、とりあえず条件には合うなぁ、とは思って、
でも、おかしいな、あやしいな、やめとこう、とも思って、
それは、普通の判断で、
ただ、本当に、あやしい目的のためなら、こんなふうな体裁にはしないんじゃないかな、とも考えて、
興味本意で、好奇心本意で、指定された場所・宿屋に来てみて、
求人票に書かれた部屋番号と、ドアに書かれた番号とを照合して、確認して、
ノックして、
「どうぞー」と言われて、
ドアを押し開けて、
すると、
その部屋の中では、ロープでグルグル巻きにされた女の子が、天井からぶら下がっていました。
私は、開けたばかりのドアを、閉めた。
どうして磁軸の話を始めたのかといえば――、
現在、こういう状況下にある私、だからだ。
*
磁軸だ。
磁軸に違いない。
ちょうどこのドアのところに、磁軸が発生しているに違いない。
だってそれ以外に説明がつかないじゃないか。
そうでなくて、どうして、当たり前にドアを開けただけなのに、当たり前でない光景に出迎えられる、なんてことが起きるかな?
異空間につながってしまっているのだ。
この宿屋は。
このドアは。
今。
――早く、逃げなきゃ。
取りこまれないうちに。
逃げ出せるうちに。
手遅れになる、前に――。
磁軸と化してしまったらしいドアが、開いた。
「待って待って待って」
そこには、背の高い、金髪の女のひとが立っていた。
そのひとは、微笑を浮かべて、言った。
「求人票見て、来てくれたのよね? ありがとう」
その唇の角度は、
……完璧、だった。
私は、どきっ、としてしまった。
足が、動かなくなる。
「どうぞどうぞ、入って入って、大歓迎」
彼女は、あくまでもにこやか。
部屋から、するりん、と出てきた。
何が「するりん」かって、
彼女は移動したのだ。
室内から廊下へ、私の背後へと。
――戸口には私が突っ立っていて、
障害物のように、なっていたというのに。
やっぱりだ。
磁軸だ。
ゆがんでるんだ、何かが。ここは。
「まぁまぁ、お話だけでも」
耳の後ろから、彼女の声。
肩に、彼女の手。
軽く押された。
私は、一歩前に、踏み出す。
されるがままに。
問題の部屋の中に向かって。
――あぁ……。
遅かったみたいだ。
私は既に、つかまってしまっていたみたいだ。
残念。
私の人生は、ここで終わってしまった。
少なくとも、普通の人生は。
これは、そういうことなんだろうなぁ。