【艦これ】あの叢雲を越えて

 駆逐艦娘・叢雲の成長は留まるところを知らない。
 戦闘レヴェルはとっくに九十九に達しているのでこれはもちろん内面の話である。先日にはとうとう執務室に台本を持参するまでに至った。まぁ「本」といってもそれは実際には「ペーパー」に近い代物で、A4用紙一枚を二つ折りにしてA5版四ページとし、コンセプト兼登場人物の設定(具体的には教師とその教え子ものだった。前者役が僕、後者役が叢雲である念のため)と舞台装置の指定(我が執務室は何故かリフォーム機能搭載で、さまざまな設備の簡単にして高速な展開・収納が可能となっているのである。その活用術というわけだ)、導入部の会話などを書き込んだだけの簡単な――、
 簡単か?
 書いていて疑問に思えてきた。モノ自体はそうだったとしても、それを準備しようという発想と、行動に移す決断力とはそうでもあるまい。いったいどれほどの研鑽を積めばそのような精神的高次元に到達できるというのか叢雲すごい。もはや若干怖い――、
 若干か?
 とにかく彼女は手作りのシナリオに沿った要するにイメージプレイを提案するようにさえなった(なってしまった)という話である。
 最初は僕もさすがに対応に苦慮した。どうすんだよコレ。どんな顔したらいいんだよ。放課後の教室内で先生が生徒に「愛情のこもった厳しい個人授業」をしてるよカギカッコつきのやつ。いかがわしい他意を読みとってください。とはいえせっかく叢雲が書いてきたものだしなぁ内容はどうあれ無碍にはできないよなぁやむをえん――、
 嘘です。
 しぶしぶとかじゃありませんでした。むしろわりと一も二もなくいきなり話に乗りました。是非やろう、と彼女の手を握りました。当人が逆に引いたくらいの勢いで。かねてから興味のあったプレイでしたぶっちゃけ。で、試してみたらそれは思っていた以上に濃密な時間を過ごさせてくれるものでしたばっちり楽しみましたえぇそれはもう、えぇ。
 僕の食いつきに気を良くしたのか叢雲は、それからどんどん新作を書いてくるようになる。家庭教師とその教え子もの、水泳部の顧問とその教え子もの、新体操のコーチとその教え子もの、部活動の先輩と後輩もの、医師と健康診断の受検者もの、保健室の先生と身体測定の受検者ものなどなど彼女の好みって分かりやすいなぁ。失敗に対する「お仕置き」(再びのカギカッコつきだ)というそもそもの大義名分はどこへ行ったのかという疑問が浮かぶことも時々あるにはあったものの、例えば結い上げた髪+黒くて地味な練習用の長袖・スカートなしレオタード(重要なことです長袖・スカートなし)+白いタイツといった姿(衣装すら彼女は用意する)で「教育的指導」(ご覧の通りのカギカッコつきだ)をおねだりする叢雲を前にして、そんな細かいことを気にしていられるかって寸法で――、
 細かいことか?
 何度も繰り返すような表現手法じゃないよなぁそれはそれとして。
 ここで、いったい何の話をしているのかと疑問に思っている向きも当然あるだろう。どうしちゃったのお前ンとこの叢雲、と。
 そのあたりの事情は前作「Mは叢雲のM」で書いた。文書は公開済みなので電子の海をタイトルで検索すれば引き当てることができると思う。とはいえだからといって、それを読め、で済ませてしまうのはいかにも乱暴だろう。ざっと説明しておこう。
 羅針盤のせいで鎮守府内の雰囲気がどん底にある時、折悪しく事故(ともいえぬ些細な出来事)が発生しました。
 僕はついつい驚きの声をあげてしまいました。
 その音量が少し大きかったらしく叢雲はびくっとし――、
 ぞくぞくっと来てもしまいました。
 未知の感覚に震えた彼女は以後、「罰」(くどいようだがカギカッコつきだ)を受けたがるようになりました。とるに足らない不具合を無理に見いだし、報告しにきてまでも。
 うん。おかしいねこのあらすじ。
 しかし事実なのである。ありのままなのである。だから仕方ないのであるそうそう仕方ない仕方ない。

    ◇

 プレイヤー・シナリオライター(造語。シンガー・ソングライターを元に開発した)と化した叢雲の最新作は兄妹ものだった。
 それもどんよりと翳り、じっとりと湿り、ぼんやりと彩度の低い、重くて禁断で背徳的なやつだった。
 虚を突かれるとはこのことだった。
 だってそうだろう。叢雲に、あの叢雲に、昼間は相変わらず強気で冷静で容赦なく、なのに夜ふたりきりになると妙に浮かれておかしなコトになる叢雲に兄妹ものを書いてきたと言われて、どうしてそっち系への心の準備ができようか。てっきりツンデレな妹ものキターと脊髄反射の速度で思って有頂天になるばかりだろう普通。ひねった視点を持つ者であれ、待てよあくまでもフィクションという建前からの無邪気で甘えん坊な妹ものかもだ、と考え直して有頂天くらいがせいぜいだろう有頂天しかないんか兄妹ものには評価甘くないか。いずれにせよ出て来るべきなのは明るく楽しく軽いやつであって、それ以外はありえないはずだった常識的に考えて。
 にもかかわらずフタを開けてみたら、「兄さま……、お慕い申し上げております……」とどこか病んだ感じの物語だったのである。意外というほかなかった。
 そして――、
 もっと意外なことに、なんと僕はその創作にがっつりドハマりし、えらく燃え上がってしまったのである。兄妹ものは好きだけど、ただしライトなやつ専門と思っていたのになぁ。こういうのも僕、いけたのか。僕も修行が足りないなぁ。自分の守備範囲を先入観なんかで狭めていたなんて。その点叢雲は格が違った。自身のキャラクタに囚われていなかった。一見ミスマッチなロールプレイを、見事に我がものとしていた。あの真に迫ったなりきりといったら! こんなコトしてはいけないのにと後ろめたく苦しく思う理性と、しかし大好きな兄に抱かれて素直に喜んでしまう心身との切ない二律背反を彼女は素晴らしく体現していた。ほとんど反則級だったといっても過言ではない。何しろそれによって僕は防御も回避も、それどころか「撤退」ボタンをも封じられてしまったのだから。一心不乱の攻撃を、進撃を、と行動を著しく制限されてしまったのだから。これがルール違反でなくて何だ――、
 あ。でも。
 陣形に相当するものを選択する権利だけは許されてたなぁ僕と叢雲の位置関係というか。ともあれ。
 立て続けの三連戦など、僕たちはひとまずいたしてしまったのでございます。

    ◇

 布団にあぐらをかき、叢雲を抱っこした体勢から僕は、そのままごろんと後ろに転がった。仰向けになってひざを伸ばす。
 さっきまで僕の肩に爪を立てる勢いでしがみついてきていた彼女も脱力している。僕の鎖骨のあたりを枕にしたうつぶせで荒い息をつき、全身をぐったりとこちらに預けている。
 その重み、その体温、その香り。
 彼女の髪を僕は撫でる。わずかに汗ばんだ感はあっても、手のひらにサラサラと心地良い。
 叢雲はしばらくされるがままになっていて、
「あんたが――」
 けど不意に、ぽつり、つぶやいた。
 そこから先を言わない。
 僕は撫でるのをやめない。
 すると、
「本当に私の兄さまだったら、良かったのに」
 もごもごと続けて、
「そうすれば、ずっと一緒にいられるのに」
 それで口をつぐんだ。
 これは――、
 本心だ。真情だ。
 告白だ。
 そう思った。
 とても叢雲らしかったからだ。
 こういう局面で顔を伏せたままにするところ。少しだけ見える耳が赤いところ。弱気になってしまうところ。
 とても可愛らしかったからだ。
 それにしても――、
 そうか……。
 そんなふうに、僕を。
 そんなふうにまで、僕のことを。
 ――しまったな。
 叢雲に先を越されてしまった。
 叢雲に先を越させてしまった。
 そういうことは、根は得意じゃない叢雲に。
 では、せめて応えよう。ちゃんと。はっきりと。
 撫でる手を止める。
「うーん」
 うなってみせる。否定的に。これは必要な手続きだ。
 彼女の肩が震える。
 叢雲が顔を上げる。
「あんたは……、嫌……?」
 不安そうな目。今にも泣き出しそうな彼女を僕は、強く抱きしめた。その背が反るほどに。
 これで、逃げられまい。
 上げた――、上げさせられた顔を隠すことさえ、もはやなかなかできまい。
「兄さま?」
 叢雲は混乱している。
 それでも僕は言う。彼女をじっと見つめて、
「嫌じゃないけど――」
「けど……?」
「僕は、叢雲は妹より、妻がいい」
 断言する。
「……」
 叢雲は一瞬ぽかんとし、
 目を見開いた。
 その顔が紅潮する。色濃く。爆発的な勢いで。ぼんっ、という音が聞こえそうだった。
 すっかり茹で上がった叢雲がじたばたともがき始める。自分の状態に気づいたのか、いやいやと首も振る。どうにかこの場を逃れよう、と。せめて僕の視界から、と。
 だが前述の通りである。この事態は想定済みである。対策済みである。今さら無駄である。
 逃すものか。
 恥じらう叢雲を見逃すことなど、できるものか。
 だいたい――、
 今こそふたり、向かい合わなくてどうする。
 その意志を込めてさらにぎゅうっと抱きしめる。
 それで観念したようで、彼女はおとなしくなった。
 表情での抵抗を除いて。
 口を「へ」の字に結んだ、すねたような顔。
 しかし基礎が照れ顔なのである。デレ顔なのである。不機嫌を装っても逆効果すぎるのである叢雲可愛い。
「本当……?」
 自分では仏頂面のつもりなのだろう叢雲が、腹話術のしゃべり方で問うてくる。
「本当」
 愚問だった。即答できる。
「〜〜っ」
 あぁ……、叢雲の努力が見える。
 唇がぴくぴくしている。にへら、と崩れかけ、そうかと思うと「へ」の字に戻る。崩れるのはすぐで、戻すのはとても大変みたいだ。これは良くない。叢雲には負担だ。軽減したい。どうすればいい――、
 そうだ。
「でも」
 僕はつけ加えることにした。
「でも?」
 彼女が首をかしげる。可愛い。
「でもそれは、強いてどちらかといえば、の話で」
「……?」
 彼女はきょとんとした。可愛い。
 僕は主張する。
「両方というのが『あり』なら、それがベストだと思う」
「……」
「妹で、なおかつ妻、というのが一番いいなぁと思う」
 これに目をぱちくりさせていた叢雲は――、
 眉根を寄せ、唇をとがらせた。
 何というか、ちょっと正気に戻った感じだった。
 で、言った。
「馬鹿」
「はい」異論はなかった。
 というより、そう言われるために言ったことだった。
 叢雲が身をよじる。拘束しておく理由はとうにない。僕は腕の力をゆるめる。彼女は僕の上で身体を起こすと、僕の顔を叩き始めた。
「馬鹿ばか」平手でぺちんぺちん。
 振り抜かない、置くようなビンタである。
「痛いいたい」
「馬鹿ばかばか」ぺちんぺちんぺちん。
「痛いいたいいたい」
「馬鹿ばかばかばか」
 ところが。
 ぺちんぺちんぺちんぺちんしながらも、叢雲はこう言ってくれたのだ。
「『兄さま』には、いい薬だわっ」
 それはきっと、OKの回答にほかならず、
 ならば「進撃」再開の合図も同然だった。
 フェイズフォー・プロシード。

    ◇

 まぶたのあたりがくすぐったい気がして、目が覚めた。
 ということは僕は眠っていたわけだ。知らないうちに。いわゆる寝落ちというやつをやってしまったようだ。まぁそりゃそうもなるだろうよと自分で自分に、あきれ半分に思う。あれから結局何戦してしまったことか。だって叢雲可愛かったんだもーん。ちょー可愛かったんだもーん。あんなに華奢な、あばらの薄く浮いたような身体で必死に甘えてくるんだもーん。おかわりもう一回くらいではまったく収まらなかったんだもーん。鎮まらなかったんだもーん。何キャラのつもりか。あぁ窓から差し込む朝日が黄色い。この光の刺激をくすぐったいと認識したのだろうか。
 ゆっくりと、顔を横に向ける。
 実は、ずっと感じていた。
 そちらから届く視線を。
 叢雲と目が合った。起きている。
 彼女は何故か、息を呑んでいた。
 目が合ったからではなさそうだった。その時にはもう、叢雲は何かに驚いていた。
 どうしたんだろう。
 僕は寝返りを打つ。身体ごと彼女の方を向く。叢雲は元々そんな姿勢だったので正対する形になる。布団の中で横になったまま「正対」というのも変か。そんなことより。
「おはよう」あいさつをする。
「……お、おはようございます」
 叢雲は返事をすると、うつむいてしまった。
 どうしたんだろう、本当に。
 昨日の、あの昨日の今日だから変に気まずい、というのはあるかもしれない。でもそれだけではないような気もする。叢雲は僕よりも先に起きて、どうやら僕の寝ているところをながめていたっぽいけれど、その最中に何か、確かに驚くべきことがあって――、
 あぁ、そうか。
 ながめていただけでは、なかったのかもしれない。
 さっきのくすぐったさは、彼女のいたずらだったのかもしれない。僕が起きてしまったことに、叢雲は驚いていたのかもしれない。
 そうだったらいいなぁ。
「むらくも」
 名前を呼んで僕は、彼女のほおに手を沿わせる。指先で首筋をくすぐった。
「ひゃ」
 叢雲は高い声を出して肩をすくめた。目線だけを、こちらにくれた。
 彼女が僕を見ている。
 僕も彼女を見ている。
 突然僕は、やたら照れくさくなった。
 叢雲の方もそうみたいだった。ふたりして、どちらからともなく目を逸らす。だがいつまでも逸らしてはいられない。どうしても叢雲のことが気になる。再エイム。すると彼女もちょうどそうしたところ。みたび目が合う。何やらめちゃくちゃ楽しくなってくる。吹き出す。僕も、叢雲も。一緒に。面白いことなんか別に起きていないのに。
 くすくす笑っているうちに本格的に目が覚めてくる。頭が冴えてくる。とはいえこんな状況だ。脳内討論会に挙がる議題など非常に限定的だ。目の前の叢雲のことばかりだ。それも昨夜のことばかり――、
 ぺちん。
 叩かれた。
「何を考えているの」
「昨日の叢雲、可愛かったなぁ」正直に答える。
 ぺちん。
 デスヨネー。
 とお約束で安心の展開に油断をしていたら、
「し、司令官も……、すごかったわっ」
 そんなことを叢雲が、ほっぺたをふくらませ、僕を見ないようにしながらぽそっと言い出すのである。
 カウンター攻撃またしても、だった。死ぬかと思った。

    ◇

 さて、例によってここまでが前フリである。本題はここからだ。
 お風呂に入ってさっぱりしてから(部屋の機能はお風呂をも召喚するのである。ちなみにさっぱりしただけである。朝の会議の開始時刻が迫っていたし。そりゃ少しはいちゃいちゃっとしたけれど。ばしゃばしゃっとしたけれど。まったりちゅっちゅっとかもしたけれど)身支度を調え、僕たちはそろって執務室を出た。通信室に立ち寄り、演習午前の部の参加艦隊リストを回収しつつ会議室へ。
 メンバはすでに集合していた。日課の処理が始まる。

    ◇

 任務の消化はしばらくはとどこおりなく進んだ。
 帰還した遠征チームの報告を聞く。補給と次の行き先を指示する。開発・建造・開発開発開発・建造建造建造・廃棄廃棄をする。近代化改修近代化改修もする。そこまでは普段通りだった。
 流れが変わったのは、その直後。次は演習演習演習か、さっきのリストを見せて、というニュアンスを込めて僕が、我が秘書艦娘の名前を呼んだ時のことである。
 彼女はこんな返事を、してくれちゃったのだった。
「はい、兄さま」と。
 凍りつく空気。
 ひきつる提督(僕だ)。
 未曾有の静寂の中、それを招いた当人(叢雲だ)ひとりがどう見ても完全に素だった。何らかの意図あっての、このタイミングでの婚約発表というわけではなさそうだった。
 純粋に間違えただけ。それに気づいていないだけ。
 うわぁ……、
 どうしようコレ。やってくれた喃、叢雲。
 そんなにも印象深かったのか。ついついぽろり、ついついおもらしするほどに(ここはカギカッコつきではありません)。僕個人としては大いにうなずけるところではあるし、非常に微笑ましく嬉しいアクシデントだとも思うが、しかし今まさにこの場においては僕は司令官。立場上手放しで喜んでもいられない――、否。
 待て。待て待て。落ち着け僕。まだだ。まだ大丈夫だ。まだ間に合う。まだみんな半信半疑だ。自分の耳を疑っている段階だ。取り乱すべきではないそれでは状況を確定するだけだ良くない平静を装うんだ何も起きていないような顔をするんだ「兄さま」なんて空耳だと叢雲はちゃんと「司令官」と呼んだのだとそのように振る舞うんだ――、
「兄さま?」
 叢雲が重ねて僕のことをそう呼んだ。
 ……あ。
 状況が確定する。
 ざわ……っ。
 凍りついていた空気が、動き出す。

    ◇

 僕の敗因は叢雲の差し出すリストを受け取り損ねていたことだった。
 それでは彼女も疑問に思おう。ならばうながしもしよう。誤ったままでということもあろう訂正されなかったら。どこにも不思議はない。よって二度目の「兄さま」を言わせてしまったのは僕だ。僕のミスだ。それは認める。認めるから、
 だから叢雲も早いとこ気づいてくれ自分のミスに。
 今度はそんなニュアンスを(フルチャージで)込めて、
「叢雲」
「兄さま?」
 く……っ。
 ダメか。伝わらないか。それともそんなにも心に、魂に刻まれてしまったということなのかイヤッホーウだから喜んではいられないというに。
「む・ら・く・も」区切って呼ぶ。
「……」
 叢雲が明らかにむっとする。何よどうしたのよ何が言いたいのよ何か文句あるのという気持ちの歴然すぎる顔。そりゃ彼女にしてみればそうだろうなぁ。悟りの境地の僕である。
 しかし、
「にい――」
 四回目を口にしかけた叢雲が、ここではっとした。
 大きくまばたき。
 あたりを見回し、手をおずおず唇のあたりに持っていく。
 ついに分かってくれたようだった。
 自分が何を口走っていたのか、そのことを。
 会議の参加者たちの視線が、集中していることを。
 彼女らに何やら、ひそひそ(パニック性のざわめきはいつの間にか有意の、語弊はあるが陰口と化していた)されていることを。
 叢雲は――、赤面した。
 その様子は昨日のとは異なり、コップにトマトジュースを注ぐところを横から見た時のようだった。器に液体が満ちていくみたいに血色が、目視できるスピードで首元から頭頂部へと昇っていった。あれってアニメ的な演出だと思っていたのになぁリアルでもあぁなるものなんだなぁ。
 などと客観視している余裕は、実はなかった。
 というのも、それこそトマトのようになった叢雲が、その表情をほわぁっとトロけさせたからである。
 あ、まずい。今のはまずいぞ。
 あれは精神面が成長してしまった時の顔だ。
 新しい快感に、目覚めてしまった時の顔だ。
 あぁ、ほら。やっぱり。
 もどかしげに黒ストッキングの太ももを、もじもじさせ始めたじゃないか。
 もうダメだ。この新しい知見に基づく台本を彼女が書いてくるのは時間の問題だ。
 その内容は露出ものとなるだろう流れ的に。そんな傾向自体は以前から叢雲にはあって、一部の衣類を身につけずにこっそりお散歩してみたい、恥ずかしい姿を見られてしまうかもしれないどきどき感を味わいたい、というような懇願を僕は幾度となく受けてきたけれど、それが強化されてしまったことを理解させられることになるだろう。素肌にロングコートだけとか雨の日には素肌に合成樹脂製の黄色い透け透けな合羽だけとかそういう、よりギリギリっていうかアウトな格好をしてこっそりならまだしもわざと人目につくようなルートを行く「お散歩」を叢雲は希望し、その付き添いを僕に頼んできたりするだろう遅かれ早かれそうだそうに決まってるだって彼女あんなにうっとりしてるもん。思い切って自分から見せていくどきどき感をラーニングしちゃった感じだもん。どうしよう。誘われた時果たして、僕に彼女を受け入れることはできるだろうか。そこまでの趣味についていくことはできるだろうか。
 思考パターンがすでに充分に訓練されているひとのそれではないかと指摘されれば肯定するのもやぶさかではないがところで。
 だが、ちょっと待ってほしい。
 この展開について、次のように解釈することはできないだろうか。あからさまに扇情的で前衛的で奇抜で強烈な見た目に振り回されることなく、本質のみを捉えることはできないだろうかついさっきまで恐れおののきながら順応していたやつの台詞じゃないとは思うけどすなわち。
 叢雲は今の自分に満足しない。慢心せず常にもうひとつ上を目指し、実際にそこに到達する。そういった、なかなかできることではない飛躍をしてのける艦娘。これが本当のオーヴァ・ザ・クラウズである、と難しいかなぁ。
 でも、もしも。
 難しくはないのであれば。
 彼女はそれほどの人物だと、いえなくもないのであれば。
 ――少なくとも僕はそのことを確信しているのだが、
 来てしかるべきものがあるはずだ、と声を大にしたい。
 そう!
 叢雲改二!
 この言葉が言いたかった!
 何とかなりませんかね冗談抜きに。マジで。

    ◇

 いや、分かっている。
 いかにもオチたような顔をしている場合ではない。
 僕はそろそろ、対峙しなければならない。
 一時保留としていた、現実と。
 そう――、
 じろじろじろ。
 ひそひそひそ。
 ……うっとり。
 この、会議室の過酷な現実と。特に最後のやつ。
「兄さま」旋風は、今巻き起こったばかりだ。
 僕の戦いはこれからである。
 叢雲の勇気が鎮守府を救うと信じて。
 収拾をあきらめていないか。

                    (了)