EMANCIPATION

 午前中のすべての授業を終えたら、食堂で光一と待ち合わせ。お昼休みを一緒に過ごすのは、もう、当たり前のことになっている。
 今日も、そう。



 既に、お皿は空っぽになっている。
 私たちの場合、食事はわりと短時間で済んでしまうから。

 このまま、ここで、のんびりとおしゃべりを続けていられればいいのに、といつも思う。

 しかし、そうもいかないのだ。
 何故って――考えてみてほしい。

 自分が待つ方の立場だったら、どんな気持ちになるか、ということを。

 ――混雑している食堂。
 ピークを越えるのは、まだまだ先のこと。注文カウンタへと向かう行列。空いている席を捜し、待つ行列。黒山だ。
 そんな場面の片隅に、仲むつまじい素敵な男女のカップルが見える。どうやら、とっくに食べ終えているようだ。
 にもかかわらず、
 彼らは、席を譲ろうとしない!
 いちゃいちゃしはじめた!

 いけない。
 これはいけない。

 なので、私たちは移動する。慌ただしく。

 ここで、より重きの置かれているのが、
 譲り合いの精神の方なのか、
 それとも、らぶらぶしたい気持ちの方なのか、
 ――そのあたりを気にしては、いけないのである。



 移動する先は、たいていは広場。
 今日も、そう。



 空いているベンチを捜す。もちろん、見当たらない日もある。そんな時はただ、ぶらぶら歩くことになる。それはそれで楽しいからいい。

 今日はラッキー。見つけることができた。
 しかも、手つかずだったのは木陰のひとつだった。

 何が「しかも」かって、そのベンチは特等席なのだ。

 他の生徒がどういう評価を下しているのかは知らない。私たちの間では、そういうことになっている。つまり、風の匂いは秋のものでも、日差しは、直接浴びるにはまだ強くて。それがいい感じにさえぎられる、その場所は、私たちの中で「特等席」だということになったのだ。

 そんなベンチが、空いていた。
 どちらからともなく、私たちは顔を見合わせる。
 笑い合う。
 競争相手は特に見当たらないのに、場所取りに走ってしまったりして。
 並んで座る。

「やった」
 小声の歓声に、光一は、
「摩央姉ちゃん、子ども?」
 そういう光一だって、笑っているのだ。



 いつもはここで、ごはんの時のおしゃべりの続きをすることになる。あっちではイントロダクション、こっちで本格的なディスカッションというところ。
 ちなみに今日のテーマは、カニについて。食堂ではまず、鍋の後はウドンにすべきか雑炊にすべきか、という議論をしていた。

 改めて考えるに、何だこの話題。
 確かにカニは好きだけど、健全な少年少女が語り合うことだろうか、これ。妙に盛り上がっていたのは確かだとしても。

 確か――確か、かなぁ。
 もしかして、光一、内心呆れてたり?
 あぁ、不安になってきちゃった。
 今から変えられないかな、題材。

 閑話――うぅ――休題。
 いつもなら、おしゃべりになる、ということ。
 今日もそんな「いつも」通りだったのならば、話の続き。ウドンと雑炊、どうしてどちらかしか選べないのか、とか、小さな鍋をふたつ用意して、両方作ればいいじゃないか、とかいう進行になっていたことだろう。

「だったのならば」は、仮定法。
 現実は違った。



 ベンチに深く腰かけなおした私は、不意の睡魔に襲われた。
 ふぁ、とあくびが出てしまう。

 特に寝不足だったり、疲れてたりするような、そんな心当たりはない。ごはんを食べたから、でもないはず。それなら毎日眠くなっているだろう。しかし実際にはむしろ逆で、お昼といえば、やっと調子が出てくる時間帯なのだ。朝に弱い私にとっては。

 なのに、
 今日はあくびが出た。

「眠たい?」
「光一チェック」の目は、なかなか鋭い。
「うーん」
 何故か否定してしまう私。「そうでもない」
「そう?」
「そう」
「――そうかな」
「何で、『そうかな』?」
「摩央姉ちゃん、目、開いてないよ」
「あれ?」

 指摘されて気づいた。
 本当だ。私、目を閉じてる。

 目を開ける。
 光一が私を覗き込んでいた。

「寝たら? 起こすよ」
 そう言った。

 受験勉強疲れが出たかな、とか考えてるに違いない。配慮。

 誤解である。
 疲れてないとは言わない。ただ、それが原因ならやっぱり、毎日眠くなっているだろう。今日のこの眠気の説明としては不適だ。

 けど。
 敢えて、訂正はしなかった。
 甘えてしまおう。お言葉に。それ以外の色々にも。

「うん……そうする」
 光一の肩にもたれかかる。

 そして――。
 思いついたのだった。

 膝枕、してもらっちゃおう。

 思いついた途端に、冴えてる、私――と眠気は吹き飛び、頭の中がクリアになった。
 お昼寝の必要は、なくなったわけだ。

 だからといって。
 そうか。じゃあ、その思いつきは口にしないでおこう――などという選択肢があるのかというと、あるものか、なのであった。
 それこそ、吹き飛んでる。
 実行。

「――寝にくーい」
「え……そう言われても」
 光一の困惑声。「保健室、行く?」

「ううん」
「じゃあ、我慢」
「それも、ヤ」
「……どうするのさ」

「膝枕、して」

 比較的長い沈黙があった。
 それから、

「――何だって?」
「膝枕」
 私は、繰り返す。
「膝……、枕?」
「ひーざまーくらー」
 私は、説明する。そんな必要はない、と判っていて。「光一の脚を枕にして、寝るやつ。やってみたい」
 光一は、膝枕は知ってるよ、と。「僕が、摩央姉ちゃんに?」
「そう」
「ここで?」
「ここで」
「……」
「……」
「……いくつか、言ってもいい?」
「どうぞ。――ただし」
「ただし?」
「何を言っても、結局は光一が折れることになると思う」
「う……、自分でもそう思う」
「ま、聞くだけは聞いてあげましょう。何?」
「……その前に」
「うん?」

「摩央姉ちゃん、本当に眠いの?」

 しまった。
 先走りすぎた。
 危ない危ない。パワーをセーヴして……。

 誤魔化す。

「ふあー、ねむーい」
「何その棒読み」

 誤魔化す気があるのか、私。

「――で? それが、聞きたいことなの?」
「いや……そうじゃないけど」
「だったら、質問を。早く」
「――……。ひとつ目。ここは学校で、テラスで、ベンチです。お昼休みです。ひとがいっぱいいます。見ています」
「ヒント。気にしない」
「どんなヒントだ、それ。――だいたい、たとえ僕たちが気にしなくても、見てる方が気にするって」
「……気にさせたいかも」
「何それ」
「『私は光一を独り占めにしています』、というのを周囲にアピールしたいかな、と」
「しなくていいから、アピール」
「光一は――」
「うん?」
「光一は、『僕は、自慢の幼馴染みの摩央お姉ちゃんを独り占めにしています』、って周囲にアピールしたくない?」
「あんまり……というか、自分で自分を『自慢のお姉ちゃん』とか言う?」
「――自慢のお姉ちゃんじゃないんだ、私……」
「いや、そこじゃなくて」
「わ。即否定?」
「う」
「つまり、自慢のお姉ちゃんなんだ?、私」
「うぅ」
「そっかぁ。嬉しいなぁ」
「……テンション、高くない?」

 その指摘は、聞かなかったことにして、

「ということは、周囲に見せたくない、の方か」
「普通、そうじゃないかなぁ……」
「そのくらい、独り占めにしたい、と」
「……もう、好きに解釈してください」

 調子に乗りすぎちゃったかな。反省。

「――冗談よ、冗談。判ってるって。学校内であんまりおおっぴらにいちゃいちゃするのは、さすがに問題がある、と。光一はそう言いたいのよね」
「できれば、最初からその理解を示してほしかった」
「……」
「……」
「……」
「……何?、急に黙って」
「いや。水着のお姉ちゃんにちゅーを迫ったひとの台詞とは思えないなー、と」
「うぐっ」
「あれ? まだ効果ありなんだ、これ。――覚えとこ」
「なんか、一生覚えてられそう……」
「……」
「……」
「……っ」
「?」
「……」
「……何?、今度は」
「『一生』ってまさか、今の、プロポーズ」
「――ええー!?」
「『ダメよそんな。早すぎるわ……私たち、まだ高校生なのよ』」
「いやいやいや。違う違う違う。違うからっていうか、本当にテンション高いなぁ……」
「そこまで否定しなくても」
「――ダメなのか、否定したくないのか、どっち」
「自明。証明の必要を感じない」
「……」
「……」
「……凄いこと言ってると思う」
「……自分でも、言っちゃった、と思う」

 ふたりして赤面しているのだから世話はない。
 この幸せ者どもめ。

「――で?」
「?」
「光一、『ひとつ目』って言ってたわよ? ふたつ目は?」
「……あぁ」
「……」
「えっと……」
「言いなさい」
「――あのね」
「うん」
「変な意味とか、他意とか、ないからね?」
「前置きはいいから」
「膝枕って……摩央姉ちゃんが、僕を、枕にするんだよね?」
「その言い方、どことなく語弊がある気がするけど……そうね」
「摩央姉ちゃんが、頭を、僕の脚に乗せる?」
「確認する必要があること?」
「寝転がらないと、乗せられないよね?」
「そもそも枕っていうものは、寝転がる時に使うものよ」
「……」
「……」
「……」
「……続きは?」
「――変な意味とか、他意とかはないからね、本当に……」
「前置きはいい、と何回言わせるつもり?」
「要するに」
「要するに」

「その――横になるのか、あおむけになるのかは知らないけど、
 どう寝転がるにしても、
 ベンチでそういう姿勢になったら、
 す、
 ――スカートのすそが、
 大変なことになってしまうのではないかなぁ、と、
 僕などは、
 考える次第で……」

「……」
「……」

「……光一の、えっち」

「他意はないって言ったのに!」
「そんな、スカートのすそのことなんか気にしておいて。説得力ない」
「だって……、めくれたらマズいでしょ? マズくないの?」

 そ――。
 それは。

「マズい」
「ほら。――だったら、えっちとか言わないで」
「……、うー」
「何故うなる」
「光一に負けるのは悔しい」
「勝ち負けなの?」
「……」
「……」

「あ、そうだ」
「?」
「……ふふーん」
「何その凄いヨコシマな笑み」

「じゃあ、光一。押さえててよ」

「へ」

「光一が、私に膝枕しつつ、私のスカートがめくれちゃわないように、すそを押さえててくれたらいいんじゃない?」

「……」
「……」

「……!?」

「あー。どういうことになるか想像したなー。光一のえっちー」
「それって……、それは一番ダメじゃん!」
「あはは」



 ――気持ちいい。
 まだちょっとだけ「夏」な太陽、
 ふぅっ、と吹き抜ける「秋」の風。

 いい季節。
 お昼を食べて、ベンチでゆっくりするには。

 ――結局私は、光一の肩枕で寝ている。

 危険性を事前に指摘されながら、なお押し切ってスカートで横になるような勇気の持ち合わせは、私にはなかった、光一も押さえててはくれないそうだったし。
 もしも本当に、そんなことになっていたら、どきどきして寝るどころじゃなかっただろうけどね。

 それで、当初の通りの、肩枕。

 肩枕――。
 そんな言葉、ないと思う。「腕枕」はあるよね。

 少しだけ、間を空けて座って、
 もたれかかって、
 光一の肩に、頭を載せて。

 ――それをここでは、肩枕と呼ぼう、ということ。

 肩枕でも、どきどきするなぁ。

 どきどきする、のに、
 その一方で、安心もしている。ここにいれば、何も心配は要らない。大丈夫。そんな「守られている」感。

 このまま、眠ってしまおうか……本当に。
 飛んだはずの睡魔。舞い戻ってきたような節もある。

 お昼休みはまだ長い。少しくらいなら大丈夫。
 おやすみなさい――?

 でも、
 どことなく、もの足りない気もしてきて。

 そうだ。

 手が、
 寂しいな。

 手、つなぎたい。
 光一と。
 手をつないで、眠ってみたい。

 それはきっと、素敵なことに違いない。

 想像しただけで、耳に血が昇った。
 本当に触れ合ったら、どうなってしまうのだろう。

 光一の――手。
 それはまさしく、手の届くところにある。
 こんなに近い。
 なんて近い。

 嘘みたいだ。

 そんな風に考えてしまうことが、今になっても、時々ある。
 そろそろ、慣れてもいいはずなのに、ね。

 さておき。
 以前の私だったら、いっそ、自分から手を出していた――どうでもいいけど、抵抗があるぞ、この表現――場面だろうに、と我ながら思う。

 今はもう無理。
 無理なものは無理。
 無理になってしまった。

 少なくとも、素では無理。

 ことさらに「摩央姉ちゃん」を演じるような、声高に「私は積極的に行動するひとです」と叫ぶような、そんな展開――つまり、あの学園祭の前の一ヶ月みたいなことになれば、話はまた違ってくるかもしれない。

 じゃあ、
 どうしようか。どうすればいいのか。

 ――難しく考えることは、ないのかな?

 自分から手を出せないのなら、
 手を出してもらえば――やっぱり抵抗あるなぁ――いいんだ。

 どうやって?
 簡単なこと。

「こういち」
「うん? ――まだ大丈夫だよ、寝てて。ちゃんと起こすし」
「うん……そうじゃなくてね」
「どうかした?」

 私は、頑張って、「手」と言う。
 その一音のためだけに、結構な量のエネルギィが消費されたと思う。

「て? ――『手』?」
「うん」

 簡単なことで、
 難しいこと。

 少なくとも、
 しっかり起きていては言えないこと。

 実は、しっかり、起きているんだけどね。

 それでは言えないことだから、
 眠っている振り、
 半分、寝惚けている振り。

「――手……握っててほしいな」

 静寂、
 そして、
 光一の、苦笑する息づかい。

「何、それ」
 とか言ってる。

 とか言いながらも、
 ちゃんと望みを叶えてくれるのが、光一なのだ。

 光一がもぞもぞと動く。腕を動かしてる。その動きが、くっつけているほっぺたを通して、伝わってくる。手をつなごうとしてくれている。

 私も――。
 そろえてスカートの上に載せていた手の、片方を動かす。
 軽く握って、光一との間にあるスキマに、置いた。

 そこに、光一の手が、上からかぶせられる。

 暖かい――。

「これでいい?」

 ……。

 良くなかった。
 期待したのとは、ちょっと違っていた。

 私が想像した形は、もっと――。

 手首をゆすぶる。
 違うよ、いやいや、離して、を表現。

 光一ののどが、うん?、と鳴る。
 かぶせられた手の重みが、軽くなる。

 私は手を、そこから脱出させる。
 光一の手の上に、かぶせてみた。
 こうしてほしかったの、という形に、すぐに持っていくのは、何だか恥ずかしい気がして。

 すると、光一の肩、ぴくん、てした。

 お、と思う。
 かぶせたまま、手のひら全体で、撫でてみる。

 ぴくん、ぴくん、てした。

 面白い。
 指先で、手の甲をくすぐってみたり。

 反応が大きくなった。

 ――あはは。

 楽しくて、
 すう、と指の方へ手を滑らせたりしていたら、
 光一の手、とうとう逃げてしまった。

 追いかけようと、
 私は更に手を伸ばす――。

 すると、光一の手が、
 ぱっ、と戻ってきて、
 いたずらしてる私の指を、まとめて握るのだった。

 捕まってしまった。

「こら」
 怒られてしまった。

 光一に怒られるのは、悪くない。

 くすっ、と笑っていたら、

「摩央姉ちゃん」
 たしなめるみたいなささやき、
 そして、
 上から、前髪に、
 ふわっ、と。
 柔らかいものが押し当てられた。

 え。

 唇――。
 髪の毛にキス――。

 違う。
 唇じゃない。
 限りなく近いところだけど、口の端。

 頬ずりと、キスとの境界。

 唇でなかったのは、残念――なんて、
 強がりだ。

 本心。
 もはや、それどころじゃない。
 動けなくなってしまった。

 うっとり、心地良くて。
 それでいて、心臓は一拍ずつ、大きく鳴り響いていて。

 だって。

 ――自分のくせっ毛のこと、あんまり好きじゃなかったけど、こうなると話は別だと思った。

 光一の頬に、くしゅっ、と押さえられた、私の前髪。
 くせの強さの分だけ、反発してて、
 ずっとテンションがかかってて、
 少しのことにも、敏感に反応して、さわさわと動く。

 それで、何だか変な感じ。
 くすぐったい、みたいな。
 撫でられている、みたいな、

 気持ちいい。
 のどにゴロゴロ鳴る仕組みがあったら、私、盛大にやってるだろうなぁ。

 さらさらのストレートでは、こうはいかないんじゃないかな。

 欲を言えば――。
 なんて、少し……ほんの少し、余裕が戻ってくる。
 考える余裕。
 もしも、という仮想を浮かべる余裕。

 もしも――。
 これが唇でされていることだったら。
 一体どんな感触になっていたのか。
 そういうシミュレーション。

 ……。

 シミュレーションでも、耳に血が昇った。
 本当にしてもらったらどうなる――。

 さっきもこんな展開があった気がする。

 それなら。
 望んでみよう。

 また、叶うかも。
 光一、叶えてくれるかも。

 ――つかまっている手、手首を再び、ゆすぶってみる。
 ほっぺたではつまんない、という不満を込めて。
 ひょっとしたら、今度こそ、唇で私を抑えてくれるんじゃ、という期待を込めて。
 わくわく。

 光一は言った。

「遊んでないで。眠いなら寝る」

 ――ダメでした。注意されただけでした。
 しくしく。

 奇跡はそうそう、続かないものらしい。

 仕方がない。諦めよう。
 今日のところは。

 全然諦めてないなぁ。

 私は――、
 そろそろ本当に眠ることにした。

 そこで。
 握られたままの指を動かす。もがくように。

「寝なさいってば」
 言いながらも、光一は手の力を緩めてくれた。

 私は指を広げる。
 緩んだ光一の手のひらに、手のひらを合わせる。
 光一の、それぞれの指の間に、
 私の、それぞれの指が、行くように。
 絡める。
 きゅっ、と握る。

 一拍遅れて、光一も握りかえしてくれた。

 光一の手。体温。感触。
 つながっている、という気持ち。
 暖かくて、嬉しくて、少しだけ、鼻の奥がつんとして。

 そう――。
 この形がそもそもの、私の望んだ、手のつなぎ方。

 やれやれ、という響きのため息が聞こえる。
 今、光一の顔を見たら、しかたない摩央姉ちゃんだなぁ、って感じに眉が下がってることだろう。

 そんな表情を思い浮かべながら、
 じゃあ、
 少しだけ、
 おやすみなさい。



 ……。



 自分が、深いところにいると思った。
 ぐっすり眠ってしまってたみたいだぞ、と思った。

 その自覚が生まれた瞬間に、私は「水面」へと浮かび上がる。
 急速に。

 頭の中はすっきりクリア――。
 と、言いたいところだけど、何だか違う。
 確かに、思考の回転数のメータは振り切れてる。しかしそれは単に、後先を考えずに、アクセルを思いっきり踏み込んでるだけって感じで。コントロールがどこかに行ってる。暴走中。次の瞬間にはクラッシュする。
 そんな危うい状態。

 平たくいうと、私は焦っていた。

 ――寝過ごした、気がする。

 曲げた下敷きが、びよん、と元に戻る時みたいに、斜めになっていた身体を勢いよく起こす。

「わっ」

 光一の驚きの声を耳に私は、その勢いのまま、ベンチからも立ち上がろうとした。話は後だ、今はとにかく、教室まで走るぞ、という意気込み。
 跳ぶような弾みをつけようと、手のひらで座面を押す――。

 できなかった。
 手がふさがっていた。

 あ、
 そうか。

 光一と手をつないで、寝てたんだっけ……。

 おしりはわずかに浮いていたものの、手が使えなかった分、踏み切りが足りなかった。
 立ち上がれない。しりもちみたいに、着地。痛。

 それでもなお、手はつながったままだったりして。

 持ち上げて、つながっているところを、見る。

 ついつい、口元がほころんでしまう私だった。
 ぎゅっ、と指に力を入れてみる。

 って。
 そんなことをしてる場合じゃないんだってば。

「光一!」

 光一は、
 目を真ん丸にしていた。

「どうしたの?」
「どうしたの、って……」

 ――あれ?
 何この薄い反応。

 おかしいな。

 頭が冷えてくる。

 寝過ごして――ないの?
 あんなにぐっすり、深いところにいたのに?

 あれれ?

「光一?」
「うん?」

 光一は光一で、おかしい、あれれ、という顔。しかし、私のそれとは違って、どこかのんびりした雰囲気。「変な夢でも見た?」とか言っているし。
 その推測。客観的には、冷静だなぁ、と評価できるけど。

 そんなことは、どうでもよくて――。
 どうなってるの?

 認識が、気持ちが、ずれている。
 すれ違っている。

 こんなことではいけない。

 私は――、
 この危機的状況を打破する画期的な策を、思いついた。

 大げさだ、などと言うなかれ。
 その認識は甘い。
 最初は些細なものに過ぎなかったギャップが、やがては大きな段差・溝へと拡がってしまうのは、ままあることだから。
 それを防ぐには、お互いに話し合うこと、理解し合うこと。
 それがまだ、小さな違和感程度であるうちに。取り返しがつかなくなる、その前に。

 これが大切だ。
 というより、これしかないのだ。

 ――そこで、
 私はまず、深呼吸。
 それから、

「今、何時?」
 聞きながら、自分の腕時計を、自分でも見る。

 ――引っ張ったわりに、安直な策だなぁ。
 そう思うくらいには、既にクールダウンしているのだった。

「――今?」
 聞き返しつつ光一は、自分の腕時計を見て、テラスに立っている時計も見た。
 既に私自身、確認していたけれど、光一の口から答を聞きたかった。待つ。

「摩央姉ちゃんが寝てから、5分も経ってないよ」



 そうなのだ。

 誰しも、経験のあることだと思う。
 眠っても眠っても、頭の中に淀んで残っていたモヤモヤ感。
 それが、ごくごく短時間の熟睡で、きれいさっぱり解消される。
 そういう現象。

 それが、今まさに、私に起こっていたのだ。



 心底、ほっとした。

「なんだ……びっくり」
 私は身体を、ベンチの背もたれに預ける。

 周囲に目を向ければ、生徒たちは、普通に歩いていた。

 これが全然目に入ってなかったのか……。
 凄いな、私。焦りすぎ。視野、狭くなりすぎ。

 ひとつだけ、弁解させてもらうなら――、
 私の目にはそもそも、光一しか映らないのだ。

 うーん。
 イマイチなのろけ方。

 私はひとり笑った。

「?」
 隣の光一は、疑問符。
 当然かな。
 読めまい、私のこんな思考回路。
「何でもない」
「よく判らないけど……びっくりしたの、こっち」
「そう?」
「そう。――どうしたの?」

「寝過ごしたと思ったの」

 正直に答えた。

「5分しか寝てなかったよ」
「凄く熟睡した気分だったから」
「――あー」

 それは共感の声色。
「誰しも」の中から、光一も漏れていなかったっぽい。

「それで慌ててたのか、あんなに」

 ところで。
 ここに来て、私。
 遅ればせながら、
 恥ずかしくなってきた。
 格好悪かった気がしてきた。

 つないだ手。
 よりいっそう、つなぐ。
 よりいっそう、握る。
 力任せに――、

「ぎゅー」
「痛たたた……、いきなり、何」
「恥ずかしいから、照れ隠し」
「ずいぶん冷静な照れ隠しもあったもんだ」
「ぎゅー」
「ごめんなさい」



 お昼休みは、まだまだ残っている。
 私たちは、おしゃべりするでもなく、眠るでもなく、ただ、くっついて過ごしている。

 起きていて、手をつないで、肩枕。

 肩枕、か……。

 悪くないよ。
 いいものだよ。

 いいものだ、けど――。

 それとは別腹で、
 膝枕をしてもらえなかったのは、残念だ、と思う。

 してもらえない(というか、できない)理由が、私の方にこそあったんだとしても。そうだとしても、残念だ。
 手を握ってもらってのお昼寝が、想像通り――否、想像以上に素敵なものだったから、余計に。

 そりゃ、最後は格好悪かったけど。あれはいわば事故だ。シチュエーション自体に責任はないし。

 したがって、
 膝枕(あと、髪の毛キス)だって、きっと同じくらい――と期待は高まるばかりで。

 諦めきれないなぁ……。

 キスの方は、いずれチャンスもあるだろうから、いいとしても。
 膝枕の方は、絶望的なのがね……。

 スカート、か。
 何とかならないかなぁ。

 人目につかなければいい、というものでもないし。
 たとえふたりきり、誰も見てないよ、という場合であっても、スカートめくれまくり、下着見えまくりというのは、ダメだろう。
 ……うん。
 ダメだ。ありえない。

 けど、なぁ。
 ――と、往生際の悪い私だった。

 あ。
 そうだ。
 下にブルマを穿いたら?

 って、小学生か。

 だいたい、いくらブルマだからって、これならスカートがめくれてもOK、問題ない、なんて気持ちにはなれない。極論すれば、中身の問題じゃないからだ。スカートがめくれてしまうこと、そのはしたなさ、あられもなさが、イヤなのだ。美しくない。

 うーん。

 パンツ(下着じゃなくて)とか?
 それなら、スカートの問題については、解決する。

 その代わりに、別の問題が発生してしまう。
 単純なこと。制服じゃない、校則違反だということ。

 校則違反にならないものは……?

 あ。
 冬の体育用のジャージ?

 それもイヤだ。
 不自然だ。
 というか、何だかガツガツしていて、これも美しくない。「どうしても膝枕してほしいから、着替えてきました」。
 気持ち的には、その通りであるにしても、そんなにあからさまなのは、どうかと思う。

 それとも、お昼休み明けに体育の授業がある日なら、おかしくないかな?
 ――いや、おかしいか。
 ごはんを食べる前から着替えてるなんて、体育の授業にどれだけ気合い入れてるんだよ、って感じ。

 第一。
 制服姿で、というのがいいのだ。それが大前提。

 ――お昼休みの学校のテラス。
 太陽と、風と、特等席のベンチ。
 制服姿で寄り添うふたり。
 彼の膝枕でまどろむ私と、
 私の髪を優しく撫でる光一と。

 そういうのがいいのだ。
 ジャージはパスしたい。

 うーん。
 かなり夢見てるなぁ、私。

 ――そう。
 夢なんだなぁ。

 実現は難しい、という意味においても。

 あーあ。
 悲しい結論が出てしまった。



 男子はいいなぁ、スカートじゃないから、なんて考えていて、いいことを思いついた。

 いいこと、というか。
 セオリィ通りのこと、というか。

「膝枕」。
 されてみたい、の一心だった。

 その反対。
 する側にまわるのも、いいんじゃないかな?、と。

「ね、光一?」
「ん……何、摩央姉ちゃん?」

 うまい具合だ。光一の反応が緩い。
 今度は光一の方が、睡魔に襲われてるみたい。

 光一に、身体を、ぴったりくっつける。
 その耳元に、唇を寄せる。

 内緒話をしようと、そうしたんだけど。
 光一の耳を見ていたら、あれをやりたくなってしまった。
 誘惑に、勝てない――。

 ごめん、光一。

「ふーっ」
「ふひゃっ」

 光一、びっくりした。

 あはは。
 面白い。

「突然、何を」
 つないだ手を、ぎゅーっ、とされる。
 痛くないよ。
「光一だって、同じことしてたじゃない、前」
 ぎゅーっ、とお返し。
「う」
 光一の、ぎゅーっ。失速。

 あ……。
 ちょっと作戦ミスだったかも。
 光一の目、覚めちゃった。

「あのね」
 改めて――、
 唇を近づける。
「うん」
「膝枕――」
 言いかけたら、光一は先回り。
「だから、ダメだってば。スカートも押さえないよ」
「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「摩央チェック――何番だっけ?」
「何番かなぁ」
「とにかく、『話は、最後まで聞く』」
「……はいはい」
「『返事は1回』」
「はい」
「で――膝枕、ね」
「うん」

「してあげる」

「……」
「……」

「……え?」

「光一、眠そう」

 嘘だ。
 もう、あんまり眠そうには見えない。
 でもここは、
 そういうことにしておかないと、始まらないから。
 そういうことにしてしまおう。

「い、いや」
 光一は、さっきとは違う種類のびっくり。「いいよ、僕は」
「ダメ」
「ダメって」
「私の膝枕で寝なさい、光一」
「命令なんだ?」
「私の膝枕で寝てほしいな、光一」
「言い換えても」
「……」
「……」
「……イヤ?」
「……そういう聞き方は、ずるいと思う」
「つまり、イヤじゃないんだ」
「そりゃ……正直、嬉しい」
「そうなんだ」

 こちらとしても、嬉しいような。
 恥ずかしくて困るような。

「けど――マズいって。人目もあるし」

 プールで水着のお姉ちゃんを、って言おうかと思ったけど、やめておく。こういうネタは、しつこいと思われたらアウト。

「そっか……」
「……」
「……」
「……そんなに、残念?」
「残念。膝枕、されるのも、するのもダメなのは残念」
「う……ーん」

 あれ?
 光一、迷ってる?

 あとひと押しが必要なだけ、なのかも。

「しくしく」
 泣き落とし作戦を試してみる。

「何そのモロな嘘泣き」
「バレた」
「バレるよ、いくらなんでも」

 失敗。
 これで落ちたら、かえって困るか――。

「……判った」

 え?

 光一が、何について判ったのか。
 私には、すぐには判らなかった。

 えぇと……?

 ……。

 うすうす、悟りつつある。
 それにつれて何故か、怖い、みたいな気持ちになってくる。

 ――その推量は、

「膝枕、してもらうことにする」

 思った通りの形で、確定された。

 ……。

 ど。

「どういう心境の変化?」
 自分で誘っておいて、うろたえるのが私だ。
「うーん」
 光一は、考え込んで、「ここは、ちょっと頑張ってみるべき場面じゃないかなぁ、と」
「何、それ」

 変な理屈、と笑う。
 最初は無理に。
 すぐに、普通に。
 嬉しくなって、怖くなくなった。

 そういうことなら――と私は、光一の腕に預けていた身体を起こす。
 膝を、きちんにそろえる。
 つないでいる手は、そのままに。
 空いている方の手で、スカートを撫でつける。プリーツを直す。

 その手で、示す。

「えぇと……、どうぞ、かな?」
「うん……」

 光一は横になろうとする。座った姿勢から、そのままこちらに倒れてくる形だ。スカートに片耳がつくことになるだろう。

 もちろん、ばたーん、と来るわけではなくて、一旦ひじをついてゆっくりと――。

 つないでいるままの手が、それを阻んだ。

「あ……」
「……」

 視線が合う。
 ふたりで、つないだ手を見る。
 再び、視線を合わせる。

「――離しても、いい?」と、光一。
「ダメ」と即答してから、私は言い直す。「嘘」
 光一は吹き出して、「どっち?」

「いいよ」

 手と手が、離れた。

 ちょうどそこを、秋の風が吹き抜けた。
 涼しい。

 暖かい方がいいな。

「じゃあ……」
 光一の声で我に返る。「――おじゃまします、かな」
「『いらっしゃいませ』?」
「それは変」

 ふたりで笑った。

 ひじをついて光一は、
 じれったいくらいにゆっくりと、
 頭を、私のスカートに載せた。

 脚にかかる、その重み。
 できあがり――。

 じゃ、ない。

「……光一?」
「な、何?」
「肩に力、入ってる」
「……そんなこと言われても」
「緊張してる?」
「そ、そりゃするよ、普通、こんな……」
「こんな?」
「……」
「……」
「……」

「……『こんな』――『摩央姉ちゃんの太もも』?」

「うぐっ」

 光一の顔は見えない。
 耳は見える。

 肯定のサインを受け取るには、それで充分。

「光一ったら、えっち」
「も、もう起きる!」
 光一は慌てて身体を起こそうとする。
「だーめ」
 それを私はブロック。頭に触れて、阻止。「眠いんなら、寝なさい」
「正直、そんなに眠くはないんだけど……」
「眠くなくても、寝るの」
「……摩央姉ちゃん、言ってること滅茶苦茶」
 ぶつぶつ言いながら、光一は膝枕に戻った。

 やっぱり、肩がこわばっている。

 私は、
 光一の髪に触れたままの手を、滑らせてみた。
 ひと撫で。

「あ……」
 光一、身じろぎ。

 もうひと撫で。

 こわばりがひとつ、解けた気がした。

 じゃあ、もうひと撫で。
 もうひと撫で。

 大丈夫、
 そんな風に呼びかける気持ちで。
 撫で、撫で。

「ん……」

 光一のこわばりは、解けていく。

 あ……。

 何だか、変な気持ちになってきた。

 どきどきしていて、
 同時に、安定もしている――。

 そう。
 安定だ。
 安心、ではなくて。
 すべきことをしています。そういう、地に足のついた心境。

 義務感のような?
 責任感のような?

 もっと、的確な言葉がある。

 ――母性本能?
 それだ。たぶん。

 なるほど――。

 自分の本質は、甘えたがり、だとばかり思っていた。
「摩央姉ちゃん」なんて振る舞いは単に、歳の差という理屈に従った、表面的な演技にすぎない、とばかり思っていた。

 そうでもなかったみたい。

「母性」な部分――「お姉ちゃん性」な部分。
 本質からして、ちゃんと持ってたみたいだ。私。
 なるほど、なるほど。
 そっか。そっかそっか。



 私の手は、自然に動いている。
 光一は、撫でられるがまま。

「……どう?」
「うん……気持ちいいよ」

 嬉しいな。

 私も、
 撫でていると、落ち着く。

「摩央姉ちゃん」
「なに?」
「――ちょっと、眠くなってきたかも」

 何だか、
 胸の奥が、ほわっ、と暖かくなった。
 その温度で、
 自分の表情が、柔らかく緩むのが判る。

「いいよ、寝ても。起こしてあげる」
「うん……ごめん」
「謝ることじゃ、なくて」
「『ありがと』?」
「そう。そっち」



「――おやすみ、光一」
「おやすみ、摩央姉ちゃん」



 光一は、眠ってしまった。

 光一が、眠ってしまっても。
 その髪を撫でることを、私は止めない。

 光一の、寝息。

 ――どうしよう。
 光一、安心しきってる。

 可愛いなぁ……。

 ふと、
 キスしたい衝動。

 唇じゃなくて。
 ほっぺたでもなくて。
 もちろん、耳とか膝とかでもなくて。

 おでことか、髪の毛とか。
 そういう、「お姉ちゃん」な、可愛いキスがいい。

 この体勢からは、難しいか。
 できなくはないとしても、わりと色々、ぶちこわしなことになるだろう。間違いない。
 それは避けたい。
 光一を起こしたくはない。

 あ。
 そうだ。

 ピン、ときた。
 ひとつのアプローチ。
 今日の私は、本当に冴えてる。

 撫でる手を、止めて、
 自分の口元へ、
 人差し指と中指に、
 キス。

 どきどきしてきた。

 左手で、光一の前髪を、静かに分ける。

 どきどき。

 キスした右手を、
 おでこに触れさせる。

 間接キスで、
 おでこキス。

 可愛いキスの自乗だ。

 私は微笑んだ。
                          (了)