午前中のすべての授業を終えたら、食堂で光一と待ち合わせ。お昼休みを一緒に過ごすのは、もう、当たり前のことになっている。
今日も、そう。
既に、お皿は空っぽになっている。
私たちの場合、食事はわりと短時間で済んでしまうから。
このまま、ここで、のんびりとおしゃべりを続けていられればいいのに、といつも思う。
しかし、そうもいかないのだ。
何故って――考えてみてほしい。
自分が待つ方の立場だったら、どんな気持ちになるか、ということを。
――混雑している食堂。
ピークを越えるのは、まだまだ先のこと。注文カウンタへと向かう行列。空いている席を捜し、待つ行列。黒山だ。
そんな場面の片隅に、仲むつまじい素敵な男女のカップルが見える。どうやら、とっくに食べ終えているようだ。
にもかかわらず、
彼らは、席を譲ろうとしない!
いちゃいちゃしはじめた!
いけない。
これはいけない。
なので、私たちは移動する。慌ただしく。
ここで、より重きの置かれているのが、
譲り合いの精神の方なのか、
それとも、らぶらぶしたい気持ちの方なのか、
――そのあたりを気にしては、いけないのである。
移動する先は、たいていは広場。
今日も、そう。
空いているベンチを捜す。もちろん、見当たらない日もある。そんな時はただ、ぶらぶら歩くことになる。それはそれで楽しいからいい。
今日はラッキー。見つけることができた。
しかも、手つかずだったのは木陰のひとつだった。
何が「しかも」かって、そのベンチは特等席なのだ。
他の生徒がどういう評価を下しているのかは知らない。私たちの間では、そういうことになっている。つまり、風の匂いは秋のものでも、日差しは、直接浴びるにはまだ強くて。それがいい感じにさえぎられる、その場所は、私たちの中で「特等席」だということになったのだ。
そんなベンチが、空いていた。
どちらからともなく、私たちは顔を見合わせる。
笑い合う。
競争相手は特に見当たらないのに、場所取りに走ってしまったりして。
並んで座る。
「やった」
小声の歓声に、光一は、
「摩央姉ちゃん、子ども?」
そういう光一だって、笑っているのだ。
いつもはここで、ごはんの時のおしゃべりの続きをすることになる。あっちではイントロダクション、こっちで本格的なディスカッションというところ。
ちなみに今日のテーマは、カニについて。食堂ではまず、鍋の後はウドンにすべきか雑炊にすべきか、という議論をしていた。
改めて考えるに、何だこの話題。
確かにカニは好きだけど、健全な少年少女が語り合うことだろうか、これ。妙に盛り上がっていたのは確かだとしても。
確か――確か、かなぁ。
もしかして、光一、内心呆れてたり?
あぁ、不安になってきちゃった。
今から変えられないかな、題材。
閑話――うぅ――休題。
いつもなら、おしゃべりになる、ということ。
今日もそんな「いつも」通りだったのならば、話の続き。ウドンと雑炊、どうしてどちらかしか選べないのか、とか、小さな鍋をふたつ用意して、両方作ればいいじゃないか、とかいう進行になっていたことだろう。
「だったのならば」は、仮定法。
現実は違った。
ベンチに深く腰かけなおした私は、不意の睡魔に襲われた。
ふぁ、とあくびが出てしまう。
特に寝不足だったり、疲れてたりするような、そんな心当たりはない。ごはんを食べたから、でもないはず。それなら毎日眠くなっているだろう。しかし実際にはむしろ逆で、お昼といえば、やっと調子が出てくる時間帯なのだ。朝に弱い私にとっては。
なのに、
今日はあくびが出た。
「眠たい?」
「光一チェック」の目は、なかなか鋭い。
「うーん」
何故か否定してしまう私。「そうでもない」
「そう?」
「そう」
「――そうかな」
「何で、『そうかな』?」
「摩央姉ちゃん、目、開いてないよ」
「あれ?」
指摘されて気づいた。
本当だ。私、目を閉じてる。
目を開ける。
光一が私を覗き込んでいた。
「寝たら? 起こすよ」
そう言った。
受験勉強疲れが出たかな、とか考えてるに違いない。配慮。
誤解である。
疲れてないとは言わない。ただ、それが原因ならやっぱり、毎日眠くなっているだろう。今日のこの眠気の説明としては不適だ。
けど。
敢えて、訂正はしなかった。
甘えてしまおう。お言葉に。それ以外の色々にも。
「うん……そうする」
光一の肩にもたれかかる。
そして――。
思いついたのだった。
膝枕、してもらっちゃおう。
思いついた途端に、冴えてる、私――と眠気は吹き飛び、頭の中がクリアになった。
お昼寝の必要は、なくなったわけだ。
だからといって。
そうか。じゃあ、その思いつきは口にしないでおこう――などという選択肢があるのかというと、あるものか、なのであった。
それこそ、吹き飛んでる。
実行。
「――寝にくーい」
「え……そう言われても」
光一の困惑声。「保健室、行く?」
「ううん」
「じゃあ、我慢」
「それも、ヤ」
「……どうするのさ」
「膝枕、して」
比較的長い沈黙があった。
それから、
「――何だって?」
「膝枕」
私は、繰り返す。
「膝……、枕?」
「ひーざまーくらー」
私は、説明する。そんな必要はない、と判っていて。「光一の脚を枕にして、寝るやつ。やってみたい」
光一は、膝枕は知ってるよ、と。「僕が、摩央姉ちゃんに?」
「そう」
「ここで?」
「ここで」
「……」
「……」
「……いくつか、言ってもいい?」
「どうぞ。――ただし」
「ただし?」
「何を言っても、結局は光一が折れることになると思う」
「う……、自分でもそう思う」
「ま、聞くだけは聞いてあげましょう。何?」
「……その前に」
「うん?」
「摩央姉ちゃん、本当に眠いの?」
しまった。
先走りすぎた。
危ない危ない。パワーをセーヴして……。
誤魔化す。
「ふあー、ねむーい」
「何その棒読み」
誤魔化す気があるのか、私。
「――で? それが、聞きたいことなの?」
「いや……そうじゃないけど」
「だったら、質問を。早く」
「――……。ひとつ目。ここは学校で、テラスで、ベンチです。お昼休みです。ひとがいっぱいいます。見ています」
「ヒント。気にしない」
「どんなヒントだ、それ。――だいたい、たとえ僕たちが気にしなくても、見てる方が気にするって」
「……気にさせたいかも」
「何それ」
「『私は光一を独り占めにしています』、というのを周囲にアピールしたいかな、と」
「しなくていいから、アピール」
「光一は――」
「うん?」
「光一は、『僕は、自慢の幼馴染みの摩央お姉ちゃんを独り占めにしています』、って周囲にアピールしたくない?」
「あんまり……というか、自分で自分を『自慢のお姉ちゃん』とか言う?」
「――自慢のお姉ちゃんじゃないんだ、私……」
「いや、そこじゃなくて」
「わ。即否定?」
「う」
「つまり、自慢のお姉ちゃんなんだ?、私」
「うぅ」
「そっかぁ。嬉しいなぁ」
「……テンション、高くない?」
その指摘は、聞かなかったことにして、
「ということは、周囲に見せたくない、の方か」
「普通、そうじゃないかなぁ……」
「そのくらい、独り占めにしたい、と」
「……もう、好きに解釈してください」
調子に乗りすぎちゃったかな。反省。
「――冗談よ、冗談。判ってるって。学校内であんまりおおっぴらにいちゃいちゃするのは、さすがに問題がある、と。光一はそう言いたいのよね」
「できれば、最初からその理解を示してほしかった」
「……」
「……」
「……」
「……何?、急に黙って」
「いや。水着のお姉ちゃんにちゅーを迫ったひとの台詞とは思えないなー、と」
「うぐっ」
「あれ? まだ効果ありなんだ、これ。――覚えとこ」
「なんか、一生覚えてられそう……」
「……」
「……」
「……っ」
「?」
「……」
「……何?、今度は」
「『一生』ってまさか、今の、プロポーズ」
「――ええー!?」
「『ダメよそんな。早すぎるわ……私たち、まだ高校生なのよ』」
「いやいやいや。違う違う違う。違うからっていうか、本当にテンション高いなぁ……」
「そこまで否定しなくても」
「――ダメなのか、否定したくないのか、どっち」
「自明。証明の必要を感じない」
「……」
「……」
「……凄いこと言ってると思う」
「……自分でも、言っちゃった、と思う」
ふたりして赤面しているのだから世話はない。
この幸せ者どもめ。
「――で?」
「?」
「光一、『ひとつ目』って言ってたわよ? ふたつ目は?」
「……あぁ」
「……」
「えっと……」
「言いなさい」
「――あのね」
「うん」
「変な意味とか、他意とか、ないからね?」
「前置きはいいから」
「膝枕って……摩央姉ちゃんが、僕を、枕にするんだよね?」
「その言い方、どことなく語弊がある気がするけど……そうね」
「摩央姉ちゃんが、頭を、僕の脚に乗せる?」
「確認する必要があること?」
「寝転がらないと、乗せられないよね?」
「そもそも枕っていうものは、寝転がる時に使うものよ」
「……」
「……」
「……」
「……続きは?」
「――変な意味とか、他意とかはないからね、本当に……」
「前置きはいい、と何回言わせるつもり?」
「要するに」
「要するに」
「その――横になるのか、あおむけになるのかは知らないけど、
どう寝転がるにしても、
ベンチでそういう姿勢になったら、
す、
――スカートのすそが、
大変なことになってしまうのではないかなぁ、と、
僕などは、
考える次第で……」
「……」
「……」
「……光一の、えっち」
「他意はないって言ったのに!」
「そんな、スカートのすそのことなんか気にしておいて。説得力ない」
「だって……、めくれたらマズいでしょ? マズくないの?」
そ――。
それは。
「マズい」
「ほら。――だったら、えっちとか言わないで」
「……、うー」
「何故うなる」
「光一に負けるのは悔しい」
「勝ち負けなの?」
「……」
「……」
「あ、そうだ」
「?」
「……ふふーん」
「何その凄いヨコシマな笑み」
「じゃあ、光一。押さえててよ」
「へ」
「光一が、私に膝枕しつつ、私のスカートがめくれちゃわないように、すそを押さえててくれたらいいんじゃない?」
「……」
「……」
「……!?」
「あー。どういうことになるか想像したなー。光一のえっちー」
「それって……、それは一番ダメじゃん!」
「あはは」
――気持ちいい。
まだちょっとだけ「夏」な太陽、
ふぅっ、と吹き抜ける「秋」の風。
いい季節。
お昼を食べて、ベンチでゆっくりするには。
――結局私は、光一の肩枕で寝ている。
危険性を事前に指摘されながら、なお押し切ってスカートで横になるような勇気の持ち合わせは、私にはなかった、光一も押さえててはくれないそうだったし。
もしも本当に、そんなことになっていたら、どきどきして寝るどころじゃなかっただろうけどね。
それで、当初の通りの、肩枕。
肩枕――。
そんな言葉、ないと思う。「腕枕」はあるよね。
少しだけ、間を空けて座って、
もたれかかって、
光一の肩に、頭を載せて。
――それをここでは、肩枕と呼ぼう、ということ。
肩枕でも、どきどきするなぁ。
どきどきする、のに、
その一方で、安心もしている。ここにいれば、何も心配は要らない。大丈夫。そんな「守られている」感。
このまま、眠ってしまおうか……本当に。
飛んだはずの睡魔。舞い戻ってきたような節もある。
お昼休みはまだ長い。少しくらいなら大丈夫。
おやすみなさい――?
でも、
どことなく、もの足りない気もしてきて。
そうだ。
手が、
寂しいな。
手、つなぎたい。
光一と。
手をつないで、眠ってみたい。
それはきっと、素敵なことに違いない。
想像しただけで、耳に血が昇った。
本当に触れ合ったら、どうなってしまうのだろう。
光一の――手。
それはまさしく、手の届くところにある。
こんなに近い。
なんて近い。
嘘みたいだ。
そんな風に考えてしまうことが、今になっても、時々ある。
そろそろ、慣れてもいいはずなのに、ね。
さておき。
以前の私だったら、いっそ、自分から手を出していた――どうでもいいけど、抵抗があるぞ、この表現――場面だろうに、と我ながら思う。
今はもう無理。
無理なものは無理。
無理になってしまった。
少なくとも、素では無理。
ことさらに「摩央姉ちゃん」を演じるような、声高に「私は積極的に行動するひとです」と叫ぶような、そんな展開――つまり、あの学園祭の前の一ヶ月みたいなことになれば、話はまた違ってくるかもしれない。
じゃあ、
どうしようか。どうすればいいのか。
――難しく考えることは、ないのかな?
自分から手を出せないのなら、
手を出してもらえば――やっぱり抵抗あるなぁ――いいんだ。
どうやって?
簡単なこと。
「こういち」
「うん? ――まだ大丈夫だよ、寝てて。ちゃんと起こすし」
「うん……そうじゃなくてね」
「どうかした?」
私は、頑張って、「手」と言う。
その一音のためだけに、結構な量のエネルギィが消費されたと思う。
「て? ――『手』?」
「うん」
簡単なことで、
難しいこと。
少なくとも、
しっかり起きていては言えないこと。
実は、しっかり、起きているんだけどね。
それでは言えないことだから、
眠っている振り、
半分、寝惚けている振り。
「――手……握っててほしいな」
静寂、
そして、
光一の、苦笑する息づかい。
「何、それ」
とか言ってる。
とか言いながらも、
ちゃんと望みを叶えてくれるのが、光一なのだ。
光一がもぞもぞと動く。腕を動かしてる。その動きが、くっつけているほっぺたを通して、伝わってくる。手をつなごうとしてくれている。
私も――。
そろえてスカートの上に載せていた手の、片方を動かす。
軽く握って、光一との間にあるスキマに、置いた。
そこに、光一の手が、上からかぶせられる。
暖かい――。
「これでいい?」
……。
良くなかった。
期待したのとは、ちょっと違っていた。
私が想像した形は、もっと――。
手首をゆすぶる。
違うよ、いやいや、離して、を表現。
光一ののどが、うん?、と鳴る。
かぶせられた手の重みが、軽くなる。
私は手を、そこから脱出させる。
光一の手の上に、かぶせてみた。
こうしてほしかったの、という形に、すぐに持っていくのは、何だか恥ずかしい気がして。
すると、光一の肩、ぴくん、てした。
お、と思う。
かぶせたまま、手のひら全体で、撫でてみる。
ぴくん、ぴくん、てした。
面白い。
指先で、手の甲をくすぐってみたり。
反応が大きくなった。
――あはは。
楽しくて、
すう、と指の方へ手を滑らせたりしていたら、
光一の手、とうとう逃げてしまった。
追いかけようと、
私は更に手を伸ばす――。
すると、光一の手が、
ぱっ、と戻ってきて、
いたずらしてる私の指を、まとめて握るのだった。
捕まってしまった。
「こら」
怒られてしまった。
光一に怒られるのは、悪くない。
くすっ、と笑っていたら、
「摩央姉ちゃん」
たしなめるみたいなささやき、
そして、
上から、前髪に、
ふわっ、と。
柔らかいものが押し当てられた。
え。
唇――。
髪の毛にキス――。
違う。
唇じゃない。
限りなく近いところだけど、口の端。
頬ずりと、キスとの境界。
唇でなかったのは、残念――なんて、
強がりだ。
本心。
もはや、それどころじゃない。
動けなくなってしまった。
うっとり、心地良くて。
それでいて、心臓は一拍ずつ、大きく鳴り響いていて。
だって。
――自分のくせっ毛のこと、あんまり好きじゃなかったけど、こうなると話は別だと思った。
光一の頬に、くしゅっ、と押さえられた、私の前髪。
くせの強さの分だけ、反発してて、
ずっとテンションがかかってて、
少しのことにも、敏感に反応して、さわさわと動く。
それで、何だか変な感じ。
くすぐったい、みたいな。
撫でられている、みたいな、
気持ちいい。
のどにゴロゴロ鳴る仕組みがあったら、私、盛大にやってるだろうなぁ。
さらさらのストレートでは、こうはいかないんじゃないかな。
欲を言えば――。
なんて、少し……ほんの少し、余裕が戻ってくる。
考える余裕。
もしも、という仮想を浮かべる余裕。
もしも――。
これが唇でされていることだったら。
一体どんな感触になっていたのか。
そういうシミュレーション。
……。
シミュレーションでも、耳に血が昇った。
本当にしてもらったらどうなる――。
さっきもこんな展開があった気がする。
それなら。
望んでみよう。
また、叶うかも。
光一、叶えてくれるかも。
――つかまっている手、手首を再び、ゆすぶってみる。
ほっぺたではつまんない、という不満を込めて。
ひょっとしたら、今度こそ、唇で私を抑えてくれるんじゃ、という期待を込めて。
わくわく。
光一は言った。
「遊んでないで。眠いなら寝る」
――ダメでした。注意されただけでした。
しくしく。
奇跡はそうそう、続かないものらしい。
仕方がない。諦めよう。
今日のところは。
全然諦めてないなぁ。
私は――、
そろそろ本当に眠ることにした。
そこで。
握られたままの指を動かす。もがくように。
「寝なさいってば」
言いながらも、光一は手の力を緩めてくれた。
私は指を広げる。
緩んだ光一の手のひらに、手のひらを合わせる。
光一の、それぞれの指の間に、
私の、それぞれの指が、行くように。
絡める。
きゅっ、と握る。
一拍遅れて、光一も握りかえしてくれた。
光一の手。体温。感触。
つながっている、という気持ち。
暖かくて、嬉しくて、少しだけ、鼻の奥がつんとして。
そう――。
この形がそもそもの、私の望んだ、手のつなぎ方。
やれやれ、という響きのため息が聞こえる。
今、光一の顔を見たら、しかたない摩央姉ちゃんだなぁ、って感じに眉が下がってることだろう。
そんな表情を思い浮かべながら、
じゃあ、
少しだけ、
おやすみなさい。
……。
自分が、深いところにいると思った。
ぐっすり眠ってしまってたみたいだぞ、と思った。
その自覚が生まれた瞬間に、私は「水面」へと浮かび上がる。
急速に。
頭の中はすっきりクリア――。
と、言いたいところだけど、何だか違う。
確かに、思考の回転数のメータは振り切れてる。しかしそれは単に、後先を考えずに、アクセルを思いっきり踏み込んでるだけって感じで。コントロールがどこかに行ってる。暴走中。次の瞬間にはクラッシュする。
そんな危うい状態。
平たくいうと、私は焦っていた。
――寝過ごした、気がする。
曲げた下敷きが、びよん、と元に戻る時みたいに、斜めになっていた身体を勢いよく起こす。
「わっ」
光一の驚きの声を耳に私は、その勢いのまま、ベンチからも立ち上がろうとした。話は後だ、今はとにかく、教室まで走るぞ、という意気込み。
跳ぶような弾みをつけようと、手のひらで座面を押す――。
できなかった。
手がふさがっていた。
あ、
そうか。
光一と手をつないで、寝てたんだっけ……。
おしりはわずかに浮いていたものの、手が使えなかった分、踏み切りが足りなかった。
立ち上がれない。しりもちみたいに、着地。痛。
それでもなお、手はつながったままだったりして。
持ち上げて、つながっているところを、見る。
ついつい、口元がほころんでしまう私だった。
ぎゅっ、と指に力を入れてみる。
って。
そんなことをしてる場合じゃないんだってば。
「光一!」
光一は、
目を真ん丸にしていた。
「どうしたの?」
「どうしたの、って……」
――あれ?
何この薄い反応。
おかしいな。
頭が冷えてくる。
寝過ごして――ないの?
あんなにぐっすり、深いところにいたのに?
あれれ?
「光一?」
「うん?」
光一は光一で、おかしい、あれれ、という顔。しかし、私のそれとは違って、どこかのんびりした雰囲気。「変な夢でも見た?」とか言っているし。
その推測。客観的には、冷静だなぁ、と評価できるけど。
そんなことは、どうでもよくて――。
どうなってるの?
認識が、気持ちが、ずれている。
すれ違っている。
こんなことではいけない。
私は――、
この危機的状況を打破する画期的な策を、思いついた。
大げさだ、などと言うなかれ。
その認識は甘い。
最初は些細なものに過ぎなかったギャップが、やがては大きな段差・溝へと拡がってしまうのは、ままあることだから。
それを防ぐには、お互いに話し合うこと、理解し合うこと。
それがまだ、小さな違和感程度であるうちに。取り返しがつかなくなる、その前に。
これが大切だ。
というより、これしかないのだ。
――そこで、
私はまず、深呼吸。
それから、
「今、何時?」
聞きながら、自分の腕時計を、自分でも見る。
――引っ張ったわりに、安直な策だなぁ。
そう思うくらいには、既にクールダウンしているのだった。
「――今?」
聞き返しつつ光一は、自分の腕時計を見て、テラスに立っている時計も見た。
既に私自身、確認していたけれど、光一の口から答を聞きたかった。待つ。
「摩央姉ちゃんが寝てから、5分も経ってないよ」
そうなのだ。
誰しも、経験のあることだと思う。
眠っても眠っても、頭の中に淀んで残っていたモヤモヤ感。
それが、ごくごく短時間の熟睡で、きれいさっぱり解消される。
そういう現象。
それが、今まさに、私に起こっていたのだ。
心底、ほっとした。
「なんだ……びっくり」
私は身体を、ベンチの背もたれに預ける。
周囲に目を向ければ、生徒たちは、普通に歩いていた。
これが全然目に入ってなかったのか……。
凄いな、私。焦りすぎ。視野、狭くなりすぎ。
ひとつだけ、弁解させてもらうなら――、
私の目にはそもそも、光一しか映らないのだ。
うーん。
イマイチなのろけ方。
私はひとり笑った。
「?」
隣の光一は、疑問符。
当然かな。
読めまい、私のこんな思考回路。
「何でもない」
「よく判らないけど……びっくりしたの、こっち」
「そう?」
「そう。――どうしたの?」
「寝過ごしたと思ったの」
正直に答えた。
「5分しか寝てなかったよ」
「凄く熟睡した気分だったから」
「――あー」
それは共感の声色。
「誰しも」の中から、光一も漏れていなかったっぽい。
「それで慌ててたのか、あんなに」
ところで。
ここに来て、私。
遅ればせながら、
恥ずかしくなってきた。
格好悪かった気がしてきた。
つないだ手。
よりいっそう、つなぐ。
よりいっそう、握る。
力任せに――、
「ぎゅー」
「痛たたた……、いきなり、何」
「恥ずかしいから、照れ隠し」
「ずいぶん冷静な照れ隠しもあったもんだ」
「ぎゅー」
「ごめんなさい」
お昼休みは、まだまだ残っている。
私たちは、おしゃべりするでもなく、眠るでもなく、ただ、くっついて過ごしている。
起きていて、手をつないで、肩枕。
肩枕、か……。
悪くないよ。
いいものだよ。
いいものだ、けど――。
それとは別腹で、
膝枕をしてもらえなかったのは、残念だ、と思う。
してもらえない(というか、できない)理由が、私の方にこそあったんだとしても。そうだとしても、残念だ。
手を握ってもらってのお昼寝が、想像通り――否、想像以上に素敵なものだったから、余計に。
そりゃ、最後は格好悪かったけど。あれはいわば事故だ。シチュエーション自体に責任はないし。
したがって、
膝枕(あと、髪の毛キス)だって、きっと同じくらい――と期待は高まるばかりで。
諦めきれないなぁ……。
キスの方は、いずれチャンスもあるだろうから、いいとしても。
膝枕の方は、絶望的なのがね……。
スカート、か。
何とかならないかなぁ。
人目につかなければいい、というものでもないし。
たとえふたりきり、誰も見てないよ、という場合であっても、スカートめくれまくり、下着見えまくりというのは、ダメだろう。
……うん。
ダメだ。ありえない。
けど、なぁ。
――と、往生際の悪い私だった。
あ。
そうだ。
下にブルマを穿いたら?
って、小学生か。
だいたい、いくらブルマだからって、これならスカートがめくれてもOK、問題ない、なんて気持ちにはなれない。極論すれば、中身の問題じゃないからだ。スカートがめくれてしまうこと、そのはしたなさ、あられもなさが、イヤなのだ。美しくない。
うーん。
パンツ(下着じゃなくて)とか?
それなら、スカートの問題については、解決する。
その代わりに、別の問題が発生してしまう。
単純なこと。制服じゃない、校則違反だということ。
校則違反にならないものは……?
あ。
冬の体育用のジャージ?
それもイヤだ。
不自然だ。
というか、何だかガツガツしていて、これも美しくない。「どうしても膝枕してほしいから、着替えてきました」。
気持ち的には、その通りであるにしても、そんなにあからさまなのは、どうかと思う。
それとも、お昼休み明けに体育の授業がある日なら、おかしくないかな?
――いや、おかしいか。
ごはんを食べる前から着替えてるなんて、体育の授業にどれだけ気合い入れてるんだよ、って感じ。
第一。
制服姿で、というのがいいのだ。それが大前提。
――お昼休みの学校のテラス。
太陽と、風と、特等席のベンチ。
制服姿で寄り添うふたり。
彼の膝枕でまどろむ私と、
私の髪を優しく撫でる光一と。
そういうのがいいのだ。
ジャージはパスしたい。
うーん。
かなり夢見てるなぁ、私。
――そう。
夢なんだなぁ。
実現は難しい、という意味においても。
あーあ。
悲しい結論が出てしまった。
男子はいいなぁ、スカートじゃないから、なんて考えていて、いいことを思いついた。
いいこと、というか。
セオリィ通りのこと、というか。
「膝枕」。
されてみたい、の一心だった。
その反対。
する側にまわるのも、いいんじゃないかな?、と。
「ね、光一?」
「ん……何、摩央姉ちゃん?」
うまい具合だ。光一の反応が緩い。
今度は光一の方が、睡魔に襲われてるみたい。
光一に、身体を、ぴったりくっつける。
その耳元に、唇を寄せる。
内緒話をしようと、そうしたんだけど。
光一の耳を見ていたら、あれをやりたくなってしまった。
誘惑に、勝てない――。
ごめん、光一。
「ふーっ」
「ふひゃっ」
光一、びっくりした。
あはは。
面白い。
「突然、何を」
つないだ手を、ぎゅーっ、とされる。
痛くないよ。
「光一だって、同じことしてたじゃない、前」
ぎゅーっ、とお返し。
「う」
光一の、ぎゅーっ。失速。
あ……。
ちょっと作戦ミスだったかも。
光一の目、覚めちゃった。
「あのね」
改めて――、
唇を近づける。
「うん」
「膝枕――」
言いかけたら、光一は先回り。
「だから、ダメだってば。スカートも押さえないよ」
「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「摩央チェック――何番だっけ?」
「何番かなぁ」
「とにかく、『話は、最後まで聞く』」
「……はいはい」
「『返事は1回』」
「はい」
「で――膝枕、ね」
「うん」
「してあげる」
「……」
「……」
「……え?」
「光一、眠そう」
嘘だ。
もう、あんまり眠そうには見えない。
でもここは、
そういうことにしておかないと、始まらないから。
そういうことにしてしまおう。
「い、いや」
光一は、さっきとは違う種類のびっくり。「いいよ、僕は」
「ダメ」
「ダメって」
「私の膝枕で寝なさい、光一」
「命令なんだ?」
「私の膝枕で寝てほしいな、光一」
「言い換えても」
「……」
「……」
「……イヤ?」
「……そういう聞き方は、ずるいと思う」
「つまり、イヤじゃないんだ」
「そりゃ……正直、嬉しい」
「そうなんだ」
こちらとしても、嬉しいような。
恥ずかしくて困るような。
「けど――マズいって。人目もあるし」
プールで水着のお姉ちゃんを、って言おうかと思ったけど、やめておく。こういうネタは、しつこいと思われたらアウト。
「そっか……」
「……」
「……」
「……そんなに、残念?」
「残念。膝枕、されるのも、するのもダメなのは残念」
「う……ーん」
あれ?
光一、迷ってる?
あとひと押しが必要なだけ、なのかも。
「しくしく」
泣き落とし作戦を試してみる。
「何そのモロな嘘泣き」
「バレた」
「バレるよ、いくらなんでも」
失敗。
これで落ちたら、かえって困るか――。
「……判った」
え?
光一が、何について判ったのか。
私には、すぐには判らなかった。
えぇと……?
……。
うすうす、悟りつつある。
それにつれて何故か、怖い、みたいな気持ちになってくる。
――その推量は、
「膝枕、してもらうことにする」
思った通りの形で、確定された。
……。
ど。
「どういう心境の変化?」
自分で誘っておいて、うろたえるのが私だ。
「うーん」
光一は、考え込んで、「ここは、ちょっと頑張ってみるべき場面じゃないかなぁ、と」
「何、それ」
変な理屈、と笑う。
最初は無理に。
すぐに、普通に。
嬉しくなって、怖くなくなった。
そういうことなら――と私は、光一の腕に預けていた身体を起こす。
膝を、きちんにそろえる。
つないでいる手は、そのままに。
空いている方の手で、スカートを撫でつける。プリーツを直す。
その手で、示す。
「えぇと……、どうぞ、かな?」
「うん……」
光一は横になろうとする。座った姿勢から、そのままこちらに倒れてくる形だ。スカートに片耳がつくことになるだろう。
もちろん、ばたーん、と来るわけではなくて、一旦ひじをついてゆっくりと――。
つないでいるままの手が、それを阻んだ。
「あ……」
「……」
視線が合う。
ふたりで、つないだ手を見る。
再び、視線を合わせる。
「――離しても、いい?」と、光一。
「ダメ」と即答してから、私は言い直す。「嘘」
光一は吹き出して、「どっち?」
「いいよ」
手と手が、離れた。
ちょうどそこを、秋の風が吹き抜けた。
涼しい。
暖かい方がいいな。
「じゃあ……」
光一の声で我に返る。「――おじゃまします、かな」
「『いらっしゃいませ』?」
「それは変」
ふたりで笑った。
ひじをついて光一は、
じれったいくらいにゆっくりと、
頭を、私のスカートに載せた。
脚にかかる、その重み。
できあがり――。
じゃ、ない。
「……光一?」
「な、何?」
「肩に力、入ってる」
「……そんなこと言われても」
「緊張してる?」
「そ、そりゃするよ、普通、こんな……」
「こんな?」
「……」
「……」
「……」
「……『こんな』――『摩央姉ちゃんの太もも』?」
「うぐっ」
光一の顔は見えない。
耳は見える。
肯定のサインを受け取るには、それで充分。
「光一ったら、えっち」
「も、もう起きる!」
光一は慌てて身体を起こそうとする。
「だーめ」
それを私はブロック。頭に触れて、阻止。「眠いんなら、寝なさい」
「正直、そんなに眠くはないんだけど……」
「眠くなくても、寝るの」
「……摩央姉ちゃん、言ってること滅茶苦茶」
ぶつぶつ言いながら、光一は膝枕に戻った。
やっぱり、肩がこわばっている。
私は、
光一の髪に触れたままの手を、滑らせてみた。
ひと撫で。
「あ……」
光一、身じろぎ。
もうひと撫で。
こわばりがひとつ、解けた気がした。
じゃあ、もうひと撫で。
もうひと撫で。
大丈夫、
そんな風に呼びかける気持ちで。
撫で、撫で。
「ん……」
光一のこわばりは、解けていく。
あ……。
何だか、変な気持ちになってきた。
どきどきしていて、
同時に、安定もしている――。
そう。
安定だ。
安心、ではなくて。
すべきことをしています。そういう、地に足のついた心境。
義務感のような?
責任感のような?
もっと、的確な言葉がある。
――母性本能?
それだ。たぶん。
なるほど――。
自分の本質は、甘えたがり、だとばかり思っていた。
「摩央姉ちゃん」なんて振る舞いは単に、歳の差という理屈に従った、表面的な演技にすぎない、とばかり思っていた。
そうでもなかったみたい。
「母性」な部分――「お姉ちゃん性」な部分。
本質からして、ちゃんと持ってたみたいだ。私。
なるほど、なるほど。
そっか。そっかそっか。
私の手は、自然に動いている。
光一は、撫でられるがまま。
「……どう?」
「うん……気持ちいいよ」
嬉しいな。
私も、
撫でていると、落ち着く。
「摩央姉ちゃん」
「なに?」
「――ちょっと、眠くなってきたかも」
何だか、
胸の奥が、ほわっ、と暖かくなった。
その温度で、
自分の表情が、柔らかく緩むのが判る。
「いいよ、寝ても。起こしてあげる」
「うん……ごめん」
「謝ることじゃ、なくて」
「『ありがと』?」
「そう。そっち」
「――おやすみ、光一」
「おやすみ、摩央姉ちゃん」
光一は、眠ってしまった。
光一が、眠ってしまっても。
その髪を撫でることを、私は止めない。
光一の、寝息。
――どうしよう。
光一、安心しきってる。
可愛いなぁ……。
ふと、
キスしたい衝動。
唇じゃなくて。
ほっぺたでもなくて。
もちろん、耳とか膝とかでもなくて。
おでことか、髪の毛とか。
そういう、「お姉ちゃん」な、可愛いキスがいい。
この体勢からは、難しいか。
できなくはないとしても、わりと色々、ぶちこわしなことになるだろう。間違いない。
それは避けたい。
光一を起こしたくはない。
あ。
そうだ。
ピン、ときた。
ひとつのアプローチ。
今日の私は、本当に冴えてる。
撫でる手を、止めて、
自分の口元へ、
人差し指と中指に、
キス。
どきどきしてきた。
左手で、光一の前髪を、静かに分ける。
どきどき。
キスした右手を、
おでこに触れさせる。
間接キスで、
おでこキス。
可愛いキスの自乗だ。
私は微笑んだ。
(了)