ESCORT

 あれから私は、猛勉強を始めた。
 入試の季節まで残り4ヶ月を切った今になって、「大学に行きたくなった」というのも、何というか、これが他人の発言だったら内心、「受験をなめてる?」ってところだ――改めて考えてみると、凄いなぁ、自分。感心してる場合じゃないけどね。



 余談。
 その決定を光一に告げて、ついでに勉強を見てもらおう(何しろ3年生は既に教科書を卒業して、試験対策段階に入っている。その点、2年生はまだ「高校の授業」の現役)(という口実)とした時のこと。
 光一の家。
 光一の部屋。
 久しぶり。
「下級生に勉強教わりに来ないでよ……」
 どこからか用意された小さなテーブル。差し向かいの光一は呆れ顔だった。
「だから、それは説明したでしょ? 現役に教わった方が良さそうだし、って」
「一理、あるのかないのか」
「あるの」
「――はいはい」
 やれやれ、って顔になって、光一は、「あのさ。まさかとは思うけど、1年生の範囲は菜々に聞こう、って考えてないよね?」
「……」
 私は、
 顔を背けてみた。
 彼は察して、
「マジか」
 期待通りの反応だった。笑顔で私は振り返る。
「冗談よ。いくら何でもそれは。そこまでは」
「だ、だよね」
 あははは、と光一は乾いた笑い。
 ふふっ、と私は応えて笑う。
 そして、
 付け加える。
「それも、まぁ、光一の教え方次第?」
「――摩央姉ちゃん」
 絶妙の間で、どんより、ウラミガマシイ声が返ってくる。
 思わず、吹き出してしまう。
「あはは」
 楽しい。
 幸せ。
 ――涙が出そうなくらい。
 また、こんな風な仲に戻れるなんて。
 戻ったどころか、進展してたりして……。
 そんなことを思って、つい泣きそうになった。
 何とか我慢。まだ、エンディングじゃないからね。
「凄い責任を背負わされた気がするなぁ……」
 さて、半ば青ざめてる光一だった。「判ってると思うけど、あんまり期待しないでよ? 悪くはないつもりだけど、良くもないし」
 ぶつぶつ言ってる。
 私は人差し指を突きつけた。
「摩央チェックその1。『自信のない態度を見せない』」
「チェック――って」
 光一、目を白黒。「それ、僕、全部クリアして、卒業したんじゃなかった?」
 その指摘は想定の範囲内、ってやつ。古いか。
 用意していた答を出す。
「小学校を卒業したら、中学校に入学するものじゃない?」
「――ステップアップしちゃったんだ」
「そんなことは、どうでもいいの」
 突きつけた人差し指で、つん、と光一の頬をつつく。「残された時間は少ないの。頑張ろ?」
「いや、頑張るのは摩央姉ちゃん……」
 ぶつぶつ光一。
 それは確かに、その通りだ。
 私は手を引っ込めた。始めよう。
 教科書を出す。開いて内容に視線を落とす。
 数学――。
 じっ、と見られている気配。
「何?」
 顔を挙げると、果たして光一が、私を凝視していた。「どうしたの?」
「いや」
 光一は真顔。「ジンマシン、出ないなぁ、と思って」
 言って、にっ、と笑った。

 ……。

「――摩央チェックその2」
 私は怖い顔を作って、睨んでみせる。「イヤミなツッコミを入れない」
「ごめんなさい」
 光一はすぐ、謝った。素直だ。
 それでも、私は睨み続ける。
 光一は逃げずに視線を受け止めて、
 それは、
 にらめっこみたいだった。
 久しぶりというなら、これこそ久しぶり。
 ふたりで吹き出したものだ。同時に。



 余談のつもりが、長くなってしまった。
 要するに、私は受験勉強を始めたということだ。
 上のようなやりとりはあったけれど、この件に関してその後、私が彼を頼ることは(それほどは)なかった。
 いや。頼りになりそうにないから、とかじゃなくて……。
 私が、本当は甘えたい、頼りたいタイプであることを、彼は知っている。よりかかろうとしていれば、その期待に応えられるように努力して、ちゃんと支えてくれていたに違いない。うん。信じてるぞ、光一。
 それでも――。
 これは私の問題だ。
 そう思ったから。



 そんなわけで。
 私と光一とが一緒に過ごす時間は、学園祭の前の、あの期間と比べれば、むしろ少なくなった。

 ただしそれは、単純に長さだけを測れば、の話。
 密度で比較すれば、また別だったりするのである。

 一緒に下校する道程が、主なデートコースになった。
 それも、寄り道することは、ほとんどない。真っ直ぐ家に向かうだけ。おしゃべりをするだけだ。
 そのおしゃべりさえ、ない日もある。
 けどそれは、話題がないとか、それで重苦しいとか、そういうことでは決してない。その反対。
 何気なく光一の方を見ると、あっちもちょうど、私に視線を向けたところだったりするような。
 くすぐったくて笑ってしまうような。
 そんな感じの、帰り道。

 ほら。
 濃密だ?



 今日も、「そんな感じ」だった。
 途中までは。

 公園のそばにさしかかったところで、微かな音を聞いた。べしっとか、びたんとか、やわらかい何かが倒れた音。
 私は足を止める。光一の耳にも届いていたらしく、同時に足を止めていた。
 何か聞こえたよね?、って同意を求めようとした矢先に、泣き声が響く。
 公園の中からだ。
 私たちは顔を見合わせる。
 スルーしよう、ということにはならなかった。
 泣き声の源を、目で捜る。
「あれかな」
 タッチの差で、光一の方が先に見つけた。
「みたい」

 そこには、小さな女の子と、男の子の姿。
 女の子の方が泣いている。転んだのだろう。
 そんな女の子に、男の子が何か言っている。内容はさすがに聞こえない。慰めてるのか、もしかしたら、「馬鹿だなぁ」とか言ってるのか。
 ただ、私には、前者のように思えた。女の子の様子が、明らかに男の子を頼りにしている感じだったからだ。既にほとんど泣きやんでるし。
 ――というか。
 あのふたり、単なる女の子、男の子、じゃなくて。

「兄妹かな?」
 光一も同じように想像したみたい。
「たぶんね」
 うなずく。
「大丈夫かな」
「すりむいたりはしてるかも、だけど」
「――助けに行くまでもない、か」
「うん。『お兄ちゃん』がついてるし」

 言って私は、
 光一を横目で見た。

 この視線に、気づいたようだ。
 ついでに、私が言いたいことにも。
 光一は、兄妹(決めつけちゃった)の方を見たまま、尋ねた。

「……あんな感じだった?」
「あんな感じだった」

 思い切り端折られてはいたけど、話題が行き違うことはない。
 光一と、その妹・菜々ちゃんとについて。

 そう。
 ふたりはいつも、「あんな感じ」だった。
「だった」、じゃないか。今でも本質は変わってないはず。

 まさに、今目にしているあの兄妹と同じ。

 私も一緒に、3人で遊ぶことが多かったのだけれど、菜々ちゃんはいつだって、光一にべったり。「ついて歩く」を文字通りに実践していた。

 そして――、
 それを、光一は邪魔にしたりはしなくて、
 だから、
 私は、

 菜々ちゃんのことが、凄くうらやましかった。

 そうそう。
 菜々ちゃんも、転んだことがあったっけ。
 ま、小さい子が複数で遊んでいるのだ。そういう事故がない方がおかしいんだけど。

 菜々ちゃんはやっぱり、泣き出して、
 光一はやっぱり、慰めてた。
 あの光景とほぼ同じ展開――。

 ……。

 何だろう、この感じ。
 何かが、引っ掛かった。

 それから、どうなったんだっけ?

 というか、
 その時どうしていた?、私――。

 そうだ。
 登場人物の数が違うのだ。「ほぼ同じ」にはなっても、「全く同じ」になるということはない。

 その時の私は――、
 見ていただけ?
 それはない。
 3人の中で、一番年上の私。
 お姉さんの私。
 自覚は、既にあったはず。
 それなりの振る舞いをしたはず。
「お姉さんは、そういう場合、それなりの頼れる振る舞いをするものである」。
 そんな知識に従っていたはず。

 当時から、私はそうだったのだ。
「頭でっかち」。

 ともかく。
 私は、お姉さんらしく振る舞ったに違いない。
「そういう場合」だったのだから。

 ……。

「そういう場合」?
 どういう場合?

 それは、つまり、
 菜々ちゃんが転んだ、という場合で、

 菜々ちゃんは、転んで――。

 ……。

 転んで――すりむいていた。

 ……。

 すりむいて――血だ。
 ケガ、を。

 ……。

 あ……。

 ……。

 ケガをしたのは、膝小僧。
 それを見た私は、こう言った。
 お姉さんらしく。

「つばつけとけば、なおるよ」

 これも、どこかで得た知識だったことだろう。
 もっと言うなら、「ケガは、つばをつけておけば治る」という知識ではなくて、「ケガをしたひとを見たら、つばをつけておけば治るよ、と言うものである」という知識だ。

 私はその知識に従った。
 それで、菜々ちゃんのケガには、つばがつけられた。

 誰の?

 ……。

 光一の。

 光一が、
 泣いている菜々ちゃんをなぐさめて、
 それから、
 その、
 膝小僧に、
 直接、
 口を。

 ――目の前がひらひらした。

「わっ」
 びっくり。我に返る。跳び上がる。

「摩央姉ちゃん?」
 ひらひらの正体は、光一の手。

「何よ、いきなり」
 驚いてしまったことが、何故か恥ずかしい。
 怒って誤魔化す。

 ひらひらさせた手を、中途半端の高さのまま留めた光一は、
「いきなり、でもないんだけど……」
「え」

 急に、じゃない?

「――呼んでた?」
「呼んでた」
 首を縦に。「でも、何だか『自分の世界』」
「……あは、は」
 決まり悪い。今度は笑って誤魔化す。
 でも、思い直した。謝ることにした。「ごめん」
「いや、ごめんってほどのことでも……」
 すると何故か、光一の方までも、決まり悪そうになって、「ただ単に、ずっとここに立ってたら変だろうなぁ、って、そう思っただけで」



 まさか、こんな形で答を知ることになろうとは。

 自分でも、ずっと疑問に思っていた。
 あの時、どうして――、
 候補のひとつとして、「膝小僧」を挙げてしまったのか。

 考えるまでもない。本来ありえない選択肢だ。
 耳よりも、おでこよりも、ほっぺたよりも、それどころか、唇よりも無茶だと思う。それこそ今――晴れて恋人どうしになった今ですら(今だからこそ、かも)、生半可なムードでは許せない、難易度の高いキスだ。
 よっぽど盛り上がっていれば、また別だけど……。
 それくらいに無茶。

 そんな選択肢を、どうして私は挙げたのか。
 その答。

  光一が菜々ちゃんの膝小僧にキス(では、ないんだけど)をした――なんて思い出、さっき掘り起こすまで、あったことさえ忘れていた。記憶の底だった。

 なのに。
 それを、いいなぁ、と、
 うらやましい、と思った気持ちだけは、
 ふとした拍子に、口からこぼれ落ちるような、
 そんな近いところに、ずっと引っ掛かっていた。

 そういうことだったらしい。
 これが答か。

 そんなに、
 ずっと、
 気にしてたんだ。

 そんなにずっと、
 好きだったんだ。

 ――怖いなぁ、私。

 くすっ、と息が漏れた。

「どうしたの?、摩央姉ちゃん」
 聞こえたようだ。光一は尋ねる。その声には薄く、焦りの色。当たり前かな。隣で、自分の世界に入られちゃったり、脈絡もなく笑われちゃったりしてれば、ね。
「なんでもなーい」
「……怪しいなぁ」
「いいから」
「――はいはい」

 苦さ半分、諦め半分、「しょうがないなぁ」って微笑の光一。

 私は――、
 その腕を、とった。

「摩央姉ちゃん?」

 それに身を寄せる。抱きつく。しがみつく。

「何、なに?」

 肩に頬ずりするみたいに。
 もっと近くへ。

「どうしたの?」

 光一の鎖骨に、おでこを当てる。

「摩央姉ちゃんってば……」

 ぴったりくっついた。
 その状態をキープしながら、私は顔を挙げる。

 すぐ、そば。
 とても、近く。
 光一の顔。

「ね」
「うん……?」
「キス、しよっか」

 光一、目をぱちぱち。

「どうしたの、本当に……」
「別に? したくなっただけ」

 からかおうというのも1割、ないでもないけど。
 残りの9割は、本当にキスしたくなったという気分。

 何だか、
 盛り上がってしまったのだ。自分の中で。

 冗談で言ってるんじゃないことを示すために、私はかかとを浮かせた。顔を近づける。
 目を閉じて、
 唇を、ほんのちょっとだけ緩めて、ん、と差し出した。

 待つ……。

 けれども、
 そうして待っても、ねだったものは、来なかった。

 土踏まずのあたりが厳しくなってきた。
 かかとを下ろす。
 目を開けると、光一の困った顔。

「……摩央姉ちゃん。ここ、道端」
「うん」
「うん、じゃなくて――」

 困ってる。

 そりゃ、困るだろうなぁ。

 判っていて、私は、
 それでも、つまらないと思う。

 もっと、困らせたくなった。

 実行。

「ひどい」
「――え」

 いかにもな台詞を、わざとらしい声色で言ったのに、光一はたじろいだ。

「自分は、ついこの間まで、私が――」
 思いついて、言い直す。「――おねーちゃんが、いくらダメって言っても、キスしようとしてきたくせにー」
 半目。ふくれてみせる。
「……うっ」
 光一、ダメージを受けてる。後退り。
 離れそうになる、追いかけて、またくっつく。
「他人の目がたくさんある教室でも、廊下でも食堂でも校庭でも、ところ構わずに」
「うぅ」
「問題だというなら、誰も居ない保健室のベッドのそば、なんて方がむしろ?」
「うぅう」
「それどころか、水泳の授業の直後で、水着姿のまま、ずぶ濡れなままのおねーちゃんをつかまえて……」
「うぅうう」

 ここで、にっこりと私、

「――何か、弁解することは?」
「ご、ございません」
「じゃ・あ」

 同意に至ったとみて、さっきみたいに爪先立ちになった私を、しかし、光一はまだ押しとどめる。

「待って待って待って」
「何よぅ」

 かなり、つまらなくなってきたぞ。
 既に 10 割がた、本気になっちゃってる、かも。

「摩央姉ちゃん、本当にどうしたの?」
「どう、って……」
 どうもしない。
「何かあった?」
 何もない。

 ただ、
 目の前のあなたのことが大好きなだけです。

 ――なんて考えて、また吹き出す。

 あぁ。
 浮かれてるなぁ、私。

 光一の顔に、疑問符がいっぱい浮かぶ。

「――あ、あのさ」
「うん」
「その、もしかして」
「うん?」

 光一は深刻な顔だった。

「受験勉強のストレスとか、そういうの、ない?」
「……」

 何を考えてるのかと思えば。
 見当違い。ないとは言わないけど……。

 なるほど。
 光一の目には、摩央姉ちゃん、重圧の末にご乱心、と映ったか。

「ないよ。大丈夫」
 これは否定しておく。
「なら、いいけど」
 口ではそういいながら、光一は納得していない表情。
 強がりだとか、考えてる?

「――心配、なんだ?」
「当たり前だろ」

 あ。即答。
 ちょっと怒ってるみたい。

 そっか。
 心配なんだ。
 悪い気はしないかな――。

 いや。
 正直に言おう。
 嬉しい。
 凄く嬉しい。

 甘えてもいいよって、言ってくれてるんだ。

「大丈夫」
 改めて、真剣に答えようと思ったのに、どうしても頬が緩んでしまう。「そんなのじゃないから」
「本当に?」
「本当に」
「――それなら、いいんだけど」
「本当に、ストレスとかじゃないよ」
「うん」

「そうじゃなくて――ただ、キスしたくなっただけ」

「……」

「だから、他意はないよ」
 体重を、預けるようにして、「光一」

 光一は、ふぅ、とため息ひとつ。
 それから、やっと笑った。
 苦笑いだけど。

「それ、他意があるとかないとかって問題じゃないと思う」
「だって」
 そうなんだから。どうにもできな――。

「判った」

 ……。
 え?

「――ちょっとだけ、だよ?」
 年上みたいな口調になって、光一は言った。軽くかがんで、アスファルトに鞄を立てている。底の金具がアスファルトに当たって、音を立てた。

 どきん。
 心臓が跳ねる。

 光一――キスするつもりだ。
 私が、自分で、ねだったんだけど。

 どきどき。

 光一が、フリーになった両手で、私のほっぺたを包む。

「……あ……」
 どきどきどきどき。
 それだけで、もう、いっぱいいっぱい、だ。
 なのに、
「ちょっとじゃ、ヤだ」
 何故か強がってしまう私だった。
「ダメ」
 目の前で、
 まさしく目の前で、
 光一はたしなめるように言う。「ちょっとがイヤなら、なし」
「うー」
「どっちにしようか?」

 主導権が入れ替わってしまった。

 けど、
 こういう風になりたかったんだ、私は。
 光一に手を引かれてみたかったんだ。

「……じゃあ、ちょっとで、いい」
 それでも、強がる私だった。

 光一、笑いを噛み殺してる感じ。

 ちょっと、面白くない。

 ちょっと、面白くなくて、
 とても、大好き。

 ほっぺたを包む手に、かすかに力がこもった。
 それが、合図。

 どきどき。

 私はかかとを浮かせる。
 頑張らないと、浮かなかった。
 喉を反らして、
 目を、閉じる。

 どきどき――。



 一瞬だった。
 この上なく、一瞬だった。
 ちゅっ、と触れて、離れて、
「はい、おしまい」という声が聞こえて、
 温かかった頬が、涼しくなって、
 すぐ近くにあった気配が、遠ざかって、
 私は目を開けた。

 光一が、鞄を拾い上げるところだった。

「帰ろう?、摩央姉ちゃん」

 浮かせていたかかとが、落ちる。

 まさか予告通りに、ちょっとだけで終わるとは思わなかった。

 がっかり。
 しょんぼり――。

 ……。

 嘘だ。

 まだ触れられてるみたいに、どきどきしている。
 まだ爪先立ちしているみたいに、フワフワしている。

 あんな、一瞬のことだったのに――、

 私は、それだけで、
 確かに、嬉しくなってしまったのだ。
 動けなくなってしまったのだ。

 少しくやしい。

 固まっている私の手を、ほら、と光一は握った。
「あ……」
 それがまた、びりびりと痺れるみたいな感じ。力が入らなくなってしまう感じ。
「行こう?」
 私はこんなになっているというのに、
 どうして光一は平然としていられるのだろう。

 不公平だ。
 かなりくやしい――。

 ……。

 あれ?
 違うかも。

 光一、平然としてない。
 してる振り、だ。動きがかたい。装っている。

 だって、耳が真っ赤。

 無理してる。

 私、かな。
 私のせい……。
 違う違う。どうしてそこでネガティヴ。
 そうじゃなくて。
 私のために――そう、そっちだ。

 実は甘えたがりの私が、気兼ねなく甘えられるように、
 安心して頼れる存在であろうとしてるんだ。

 私は、
 動けるようになった。
 ぎゅっ、と光一の手を握り返す。

「摩央姉ちゃん?」
 光一の肩が、ぴくん、と震えるのを、私は見逃さなかった。
 やっぱり、無理してたんだ。
 私のために。
「うん」
 きっと、今までで一番素敵に微笑むことができたと思う。「帰ろう?」



「――摩央姉ちゃん」
「なに?」
「……」
「?」
「あのさ」
「うん」
「……」
「何よ」
「その……提案というか」
「提案」
「そんな大げさなものでもないかな。単なる思いつき。ちょっと無神経かもだから、ダメならダメって遠慮なく言ってくれていいことなんだけど――」
「ぎゅーっ」
「――痛たたた」
「回りくどい。内容をいいなさい、内容を」
「いくら摩央姉ちゃんの握力でも、そんな力任せにされたら痛いって……」
「早く」

「えぇと、ね――。
 デート、しよう?」

「……え?」
「あぁ、うん、判ってる。受験勉強、大変なのは知ってる。いや、本当に知ってるのかと聞かれると弱いんだけどさ――時間、惜しいんだよね?」
「……」
「だから、デートといっても、一日使って遊びに行こうとかじゃなくて、寄り道の豪華なバージョンというか。少しだけ、学校帰りに時間、もらえないかな」
「……」
「気晴らしになればいいかな、と。結局、近場をぶらぶらして終わりになっちゃうと思うけど。この頃は、そういうことさえご無沙汰だし――あ。それが不満とかじゃなくてね」
「……」
「えっと……」
「……」
「あ、あぁ。そうそう。もちろん、摩央姉ちゃんに行きたいとこがあるなら、そこに行くよ」
「……」
「行けない――行ってる場合じゃないなら、断ってくれて全然構わないから」
「……」
「……」
「……どう、かな」

「――ははーん」

「え」

「さては、遠慮なくキスしていられるシチュエーションを用意しよう、って計画ね?」

「う――い、いや、そんな風に言ったらミもフタも」
「でも、要するに、そういうことでしょ?」
「えぇと、まぁ。それは、その」
「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「認めなさい」
「……」
「……」
「……はい、その通りです」
「よろしい」
「……」
「……、とりあえず、ね」
「うん」
「何度もいうけど、大丈夫、だから」
「……、うん」
「勉強、まだそんなに追いつめられてないし?」
「……それはそれでこの時期、問題があるような」
「ふふっ」
「笑いごとかなぁ……」
「……」
「……」
「……大丈夫だから、本当に」
「――うん。判った」
「で――キス、ね」
「!」
「もっとゆっくりしてたいな、とは思う」
「!!」
「――驚くこと?」
「いや……言われたら、驚くと思うよ。普通」
「そうかな……。あー、そうかも」
「そうだよ」
「それで――えぇと」
「うん」
「キスしたいのは、本当。けどそれは、ストレスで壊れかけてるからじゃない、というのも本当。歯止めが利かなくなって、あらぬことを口走ってるわけじゃないよ。心配はご無用」
「……なら、いいけど」
「まぁ、今のところは?」
「そこで、不穏な付け足しをしないで」
「でも――」
「うん?」

「三日後ぐらいには壊れかけてそうだから――その時、デートしてくれる?」

「何その妙に具体的な精神状態のスケジュール」

「だって、今日これから、というにはもう中途半端な時間だし、だからって明日というのも急だし。明後日は遠いし」

「摩央姉ちゃん……」
「うん……」

「三日後っていうものは、一般的に言って、その『遠い明後日』の更に次の日のことで、ムジュンしてるよ。大体それ、精神状態関係な」

「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「冷静なツッコミをありがとう」
「ありがたいなら、握りしめないでほしい……」

「――遠すぎる楽しい予定を、どきどきしながら、指折り数えて待つのって素敵だと思わない?、ということよ」

「……摩央姉ちゃん」
「光一……」

「三日後って、そんなには遠くないと思」

「ぎゅーっ」
「痛たたた」



「それで、行きたい場所のリクエストも、受けつけてくれるんだったっけ?」
「できる範囲で。――行ける範囲で、かな、時間的に。どこか、あるの? 行きたいとこ」
「うん」
「どこ?」

「えっと……。
 屋上、でもいい?」

「……屋上?」
「うん、屋上」
「……って、学校の?」
「そう。学校の」
「何でまたそんな、いつでも行けるところに」
「いいじゃない」
「いいけどさ」
「――あ。ほら。いつでもっていうけど、帰り道に寄ったことはないでしょ?、屋上」
「そりゃ……まぁ、寄るも何も逆方向だし」
「なら、珍しい場所といえなくもない」
「無理矢理こじつけてない?」
「……」
「……」
「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「私の行きたいところは?、って聞いたのは、光一」
「聞いたけどさ」
「けど?」
「――やっぱり、近くない?」
「うん。近いね」
「というか、近すぎない? もうちょっと遠くても」
「いいのよ。屋上がいい」
「……」
「……」
「……、あ……」
「何?」
「やっぱり、寄り道してる時間、ない?」
「――あぁ。そっちの意味にとっちゃったか」
「?」
「違うわよ。そんな後ろ向きな理由じゃない。むしろ逆」
「逆?」
「……」
「……」
「……言わせるつもり?」
「え。な、何でそこで含みを持たせる。――言ってくれないと判んないよ」
「……聞きたいんだ。私の口から」
「え、え」
「屋上がいい理由。ポジティヴな理由。こじつけじゃない理由」
「え、え、え」
「言わせる気なんだ――」
「え――っと」
「いじわる」
「ま、摩央姉ちゃん?」

「――屋上がいいというのは、そこが、光一が私のことを、好きだって言ってくれた場所だからです」

「……!」

「……」
「……」

「ぎゅーっ」
「痛たたた」
「――何か言ってくれないと、恥ずかしいでしょ」
「い、言われた方はもっと恥ずかしいから、それ!」
「あぁ……、光一に恥ずかしいコトバを言わされちゃった……」
「何その誤解を招く表現」



「じ、じゃあ、屋上だね? 三日後にね?」
「うん。それで」
「……」
「……」
「……」

「ありがとね、光一」
「いや、大したことじゃないし」
「うぅん。楽しみよ」
「摩央姉ちゃん……」

「本当に、楽しみ――。
 気持ちいい風が吹いてる、誰も居ない夕暮れの屋上。告白された時のことを思い出しながらの、ロマンチックなキス、かぁ……」

「……」
「ね?」

「待って。天候と他人の行動ばっかりはどうにも」

「ぎゅーっ」
「痛いってば」
                           (了)